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どうしてこんなことを。
問われても、そもそも私は本当の理由を知らなかった。
「強いて言うなら、棲んでいる水が違うんです。私が淡水魚だとしたら、他の人たちは海水魚。例え話ですが、そんなところです」
こんなの、政治家の答弁めいている。
訊かれたことには直接答えず、それに近そうな話をして卑怯に誤魔化してしまう。けれど、私がこの人に答えられる内容のギリギリがこれだった。本来の答えを持ち合わせていなかったから。私はここでそれを明かせない。私がここで明かさないのではなくて、私の意思とは関係なしに、私にそれを許さない空気が満ち満ちているのだ。そのことは一番理解していたし、ここにいる人は意識すらしていないのだろう。
「気持ちは変わらんか」
「……どう、変わるんでしょう」
机を挟んで向き合った寒川先生は革張りのソファに深々と身を預けて、不気味な明るい表情を浮かべていた。まるで私を褒めようとしているかのようだった。今日の寒川先生は、それまでの怒号を封印すると決めているらしかった。
「違いましたね。どう変わるかじゃない。どう変わって欲しいんですか」
「お前にとってメリットはないとしか、俺には思えんよ」
「それは、どうでしょう」
「高校どうするんか、考えたか」
「そうですね。白瀬にしようかと。近いですし」
「今のお前で取ってもらえる思うんか」
「それは、どうでしょう。入れるんじゃないんですか」
「そりゃあ舐めすぎやわ。頑張らん人間なんか、どこも要らんがな。どうぞお引き取り下さいってなるで」
「そこは……向こうの考えることです。それならそれで、因果応報なんでしょうね」
「自業自得やな。それでエエんか」
「……はい。構いません」
「注目か。注目が欲しかったんか」
「そんなのじゃないですよ。言ったじゃないですか」
「じゃあ何なあ。おかしいがな、教室で見とってもいつもの真琴じゃあないようにしか見えん。もう成績はどうにもならんが、真琴、これ以上家族を裏切るんだけは」
「――時間ですし、もう部活に行っても?」
「行きたいんか」
「そう、ですね。はい」
「行きたいなら行きゃあエエ」
「それって、行くなってことですか」
「俺はそんなこと言っとらんがな。行きたいならそれで構わん」
「そうですか」
席を立った私に、先生は何事かを言いかけたけれど。
「失礼します」
お前は私の敵でいい。私の味方は私が選ぶ。その善意の底に隠したものを、私は知りたい。
狭苦しい相談室から出た私は、その唐突さに驚かされる。薄暗い廊下に双葉が座り込んでいたのだった。ああ、相談室の冷房は効きすぎていたんだな、と悟った。
「終わったかー。お疲れー」
額の汗をぬぐいながら、双葉は顔を上げる。周りの地べたにはノートに問題集が広げられていた。
「何してるの双葉、こんなとこで」
「気んなってな。麻由が見てきてーって、んじゃあ自分で行けよって思うんだけど、そりゃ怖いとかな。意味わからんわ。で、宿題しながら待ってた」
「それ、塾の」
「あーうん、今日までのヤツ。ヤバいわー、増えたんよ最近。先週分だけで五ページやで、数学。酷くね?」
「辞めて正解だった」
いそいそと周りに散らばった筆記用具を片付けると、双葉は膝のあたりの埃を払って立ち上がる。
「なー、もう来ないん? 真琴」
「別に」
「大丈夫なん? 向こうでも心配してるの、いるで」
知った名前が幾つか挙げられる。塾でなければ会っても良さそうな面々だった。うちの学年から何人か取り換えて欲しいくらいの人たち。もう顔も合わさないと思うと、それはそれで寂しいかもしれなかった。
私と双葉は、そのまま音楽室へと向かった。放課後になってすっかり伽藍なった校舎には、暑苦しい蝉の声が響き渡っていた。どういう訳だか、今日はどこの部活も気だるげで活気が失せているようだった。
「これ、噂なんやけどな」
双葉が言った。
「カンニングってホンマなん」
「……は? カンニング?」
四階の踊り場に転がっている真っ白な蛾の死骸を、上靴が蹴っ飛ばす。
「何でそうなるの」
「だって順位もわからんまんまやで。絶対おかしい。呼び出されるとか普通じゃなくね」
「だからってカンニングになるの」
「仮の話やって。仮定仮定。逆だって考えられるしな。今回バレたから呼び出されて点数も無効、今までの成績はーって」
「逆って何。今までカンニングしてたってこと?」
「まーありえんわな。誰見るっつーのって」
「――馬鹿みたい。私がカンニングなんて、それこそ天地がひっくり返ってもあり得ない」
「よな。まあ、そうと思ってたけど」
やっとたどり着けた音楽室にも、やはり、緩慢な空気が滞留していた。パーカッションが机を叩き続ける音だけが無遠慮に鳴り響いていた。菜々たち、一、二年生の後輩数人が手にしているマウスピース以外、楽器の音色らしい音色はしていなかった。こんな中では珍しく、三年生ではさやかだけが、真面目にピアノの上で楽譜の束を小分けにしていた。
「うわー欠席だらけ。理沙ちゃんもいないのかー、今日どうすんよこれ、木管で合わせるんじゃなかったん。てか麻由どこよー、待ってるんじゃなかったんかーあいつ」
出入り口にほど近い出欠確認用の黒板を見て、双葉は力なくぼやいていた。
「理沙は委員会だってー」
飄々と耳聡く、楽譜を並べるさやかの声だけが割って入った。
「あー、そこ双葉書いといて。委員会って書くの忘れてたわ、名前だけになってるそこ」
「マジかー。今日行けるとか言ってなかったっけ、理沙ちゃん」
「それたぶん委員会の方やね。つーか早かったな。カエラまだ来ないの」
「楓ちゃんは生徒会。まだ居残ってる」
雑な字で欠席者の名前とその理由が記されて並んでいた。理沙を含め、特に木管のメンバーの出席率が悪い。全員が全員ここにきちんと書く訳でもなく、書いてあるだけマシだ。
入り口に荷物を置くとき、横目でひと通りを確かめる。小さく上品な、金色のフルートの形をしたキーホルダーが荷物の中に埋もれていた。
そのキーホルダーに、背筋がしっかりする。出席率もどうだって良くなった。
既に五時を過ぎていた。最終下校の六時まで、許された時間は少ない。
「どーする真琴。合わせるか」
「今日は流すしかないんじゃない。もう合わせる雰囲気ないし」
「しゃーないな。個人練しかないかー」
唯一、フルートだけ休みがいなさそうなのは何かの皮肉なのか。薫の姿は見えないけれど、そういえばバチの音に混じって微かにフルートの音がしている。どうして気がつかずにいられたのだろう。三日ぶりに聞く、美果の音だ。
今日に限っては、欠席者やらサボりやらが多くて嬉しかった。だれた連中を横目に、私はいつもの涼しい空気の場所へと向かった。
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