Interlude.1.

/2.

 壕、といっても、ここは真暗で湿気た天然の洞窟だ。天井は高く、奥にも広い洞が黒々と浮き上がって見える。

 ああ、ここで……ここで、腕が……脚が。外は鉄の雨。抉られる肉。零れる内臓。撒き散らされる血。焼ける皮膚。悲鳴、悲鳴、悲鳴。圧倒的な死が、かつてのこの洞に充満していたのだった。この洞で、彼女たち――私や美果とそう歳の変わらない歳の少女たち――が、死に向き合っていた。何を思って兵士たちの傷や友だちの死体に、その手で触れていたのだろうか。麻酔無しに切断される腕や脚たちと、どう向き合ったのだろう。

 鉄の暴風。爆撃。銃撃。火。血。臓物。肉片。人殺し。自殺。人殺し。人殺し。死。グロテスクな中身を為すがまま、あるいは為されるがままぶちまけた人間たち。かつての日本にあった地獄。

 陳腐な想像に任せる他ない現代の私たちは、ほんの一世紀も離れていないのに、かつての少女がこの地獄で感じたものを理解し得ない。解るはずもない。そんなものとは縁遠い生活を送っているのだから。

 だから、忘れてしまう。だから……だから私たちはひた隠しにしなければいけない。けれど本当は、誰にだって……。

 急に、ぐい、と左腕を引かれた。

 私は腕にしがみついた麻由を見据えた。こわばった小柄な身体が私に押し付けられていた。視線は心なし、下の方を向いている。それでいてその瞳には、足もとすら見えていないような虚ろが映り込んでいた。

「ちょっと、麻由」

 美果と双葉は、私たちから少し離れた場所で背を向けて闇の向こうを眺めていた。けれど美果に見咎められれば、後で何を言われるかもわからない。

「出よ、早く。お願い、マコちゃん」

 何してるの馬鹿。言いかけた私より早く、麻由は切羽詰まった声で必死に縋りついてくる。大丈夫かどうかなんて聞くだけ野暮なくらい、麻由は震えていた。

「ね、暗いし気持ち悪いし。出ようよ、こんなところ」

 嫌に強い力で、麻由は私を壕の出口の方へと引っ張ろうとする。出口は、草と木が陽射しに焼けているかのように照らされていて、目を向けるだけで痛いくらい、眩しかった。

 私より小柄で非力な筈の麻由に強情なまでに引っ張られて、足もとが狂ってしまいそうになる。こんな暗くてごつごつしたところで転げるのも嫌だった。仕方なく、引かれるままに従った。

 本当は、天井を、洞の奥の光景を、この身に焼き付けたかったのだけれど。

 確かにこの場所で私たちと同じくらいの子どもたちが、迫りくる死を実感していた筈なのだから。もっと小さな子もいたのだろう。赤ん坊だっていたと聞いた。

 何て、遠い。どうしてそんな離れてしまっているの。銃は、手榴弾は、鋸はどこ。腕と脚でいっぱいになったバケツはどこ。

 私と麻由は速足に壕を出た。

 息が少しあがっていた。南国の強い陽射しは四月でも暑かった。私はナップサックからノートを取り出して、修学旅行で義務付けられている適当な記録を取っていく。真面目な平和学習の報告書の原型を一人分、余分にもう一人分ほど。暗かったこと、圧倒的に寂しい空間だったこと、後はかつての人々への思いを連ねた。他人の痛みを想起させる内容は、この手の感想に使うと殊更に先生ウケが良い。調べておいた予備知識と実体験との間に生じる差異もおさえておいた。

 ……この地獄が繰り返される事はあってはなりません。私たちと同じか、それよりも小さな子どもたちが真暗な洞窟の中であげる無辜の悲鳴は、無言のまま、私の心に響きました。それは、命を、平和を求める痛ましい叫びでありましょう。私たちはこの叫びを胸に留め、そして後世へと伝えてゆかねばなりません……。

 綴られた文字が空欄を隙間なく埋めていく。

 そこにいたい訳ではない。けれど。

 始終、麻由は無言で、水筒から氷を注いではガリガリと噛み砕いていた。感想を書き終えて手持ち無沙汰になった私は、ぼんやりと見慣れない植生を眺めていた。

 碧い。碧くて深い雑木林。強い生命の色。

 まもなくして、美果と双葉が出てきた。

 普段通りに見える笑顔だった。けれど本心は違うとはっきりわかる。双葉の笑い声には緊張感がある。美果の表情はやたらと明るく、声のトーンも少しだけ上がっていった。どちらも危険なサインだった。

 私たち四人は揃って壕を後にする。何ともなかったかのような、底抜けなハイテンションで双葉は喋っていた。いつもの調子に、私も適当に頷く。

 歩きながら、私たちは二つに割かれた。

 美果は疲れた風を装って、私の隣で黙りっぱなしだった。前を行く双葉と麻由は、美果とは対照的なまでに明るかった。互いに重ならない視線だけ、ちらちらと飛び交っていた。

 本土よりひと足早い、初夏の土臭い空気。暑いと身体も動きやすいし、晴れやかな気分でいられるのだけれど、この空気はあまり心地よくなかった。

 不自然な空気が薄まったのは、クラス全員と合流した時だった。私たちが一番最後に合流したらしく、冷房の効いたバスのなかには二つずつ、私たちの席が空けられていた。二組の席は相応に離れていた。私と美果は後ろの方に座った。

 午後いっぱい平和学習として歩き回ったせいで、クラスメイトたちは揃いも揃ってしなびてしまっている。騒がしくてかなわないのも遠慮したいけれど、こうも静かだと私だって美果と話し辛い。美果にしても窓の外をぼんやりと眺めていて、話しかけてこないで、と云わんばかりの態度だった。普段元気な男子ほど、座席にだらしなく身を投げ出している。ガイドさんも気を使ってか何の案内もしてくれない。

 平和学習なんてものは凡そ、修学旅行にうっかりくっついてきたノートの切れ端程度しか意味を為さないのだ。私からすれば、こんな風に冷めきっているのは不愉快で、理解したいとも思わない。面倒なら来なければ良いのに、とすら思う。こんな時だけこいつらは律儀だ。つまらない奴ら。中途半端な律儀さのツケは私にまわされる。ここであったことを纏めて、それを発表して、たぶん後日にはお礼の手紙なんかを送る。放っておくと何を書くかもわからない。今日明日くらいそんな面倒、忘れていたいのに。

 ナップサックからブックカバーを掛けた本を一冊取り出した。やたら出慣れているせいで、こんな時は大抵、クラスで一人平気な顔をしていられるから暇になる。本土から遠く離れた南の島の景色は初めて見るけれど、それでもやはりどことなく馴れ過ぎている感覚がして見飽きてしまう。

 適当に活字を追っていると、美果が背もたれに預けていた身を起こした。誰も見てないから良いようなもので、美果の目つきには地が出ていた。

「何、それ」

 美果の声は、私の耳にしか届かなさそうなくらい小さくて低かった。

「例の新作。まだ半分読んだところ」

「例の、って何よ」

「……美果も楽しみにしてたじゃん。これ」

 そっとブックカバーを外して表紙を少しだけ見せる。朱色の表紙に西洋絵画風の天使が大きく描かれていた。私たちのように物好きな読者の間では名の通った作家の新作だ。美果もちらと見ただけで了解したらしく、軽く身を乗り出してくる。

 背もたれと沈黙に隔てられて、バスの座席は各々が個室めいていた。見咎められないよう、すぐにカバーを掛け直す。

「まだ本屋に行けてなくてさ。買えてない」

 美果はこの前と同じ愚痴を零していた。

「じゃあ読む?」

「ん」

 私は冒頭まで頁を返した。美果が読みやすいように、少し本を傾ける。

 そこには真っ二つ、縦に両断された死体が生えていた。断面からは臓物が溢れ零れ、血をとめどなく流している。その横にも死体があった。串刺しにされた死体と死体が絡みあって、奇怪なオブジェが形づくられていた。

「真琴、さっきのあれ、何」

「あれって」

「わかんないの」

 ――私たちは死体の森の中を歩いている。赤い肉の葉が鮮やかに映える。息を潜めて、わき目もふらずに、ただただひたすらに。

「麻由の。壕」

 短い指が次のページを求めた。聞き取れたのが奇跡に思えるくらい、小さな声だった。

「別に」

「そ」

 頭のてっぺんから身体を真っ二つにすると、私たちの意識はどちらにいくのだろうか。綺麗に、等しく、真っ二つになったとすれば。首を刎ねられても数秒は意識があるらしいけれど、そもそも頭が割れてしまったらどうなるのだろう。

「本当に? 真琴」

 ……全身の皮を剥かれた真っ赤な天使が、瞼を失った眼玉を爛々とさせて微笑んでいる。愛しみに満ちていて、同時にすぐにでも崩れてしまいそうな危うさを感じさせる、恍惚の表情。美しさを奪われた天使は、その美しさが嘘だったことを知って悦びに包まれる……。

「何が」

「……別に」

 美果が何を言いたいのか想像はついていたし、それは簡単なことだった。けれど、それを――それは、水のなかからとある水だけを掴もうとしているようなもので、もうそれ全部が水なのだと思ってしまった方が良いような、そんな――私は、それをそれ以上に想像しようとしなかった。想像したくないのではない。けれど、それは。

「ごめん、何でもない、気にしないで」

 黙々とページをめくる美果が、それ以上は口を開かなかった。私は答えなかった。それで良いのだ、と思うその反面で、それで良いのか、果たしてこれをそのままにして良いのか、今、この場所は、今だからこそ――なんて調子に、思索の断片をページの端々へ、ぼとぼとと零してしまっていた。

 私たちは飢えている。思考を血で塗り潰したかった。私たちは、誰にも、何ものにも満たせない欲望に飢えている。この本に出てくる鬼か悪魔のように。美果の丸っこくて愛嬌のある顔には似ても似つかないそのグロテスクな影を、確かに私たちは互いに見いだしている。

 ……青年は、捕まえた天使の姿を一寸刻みにする。爪を剥ぎ指を折り腕を捥いだ後、血染めの羽を鋸で根元から切断する。青年のけたたましい笑い声と、天使の甲高い絶叫が重なる。翼を失った天使の声色は、地響きのような野太い声へと変化して、やがて絶命してしまう。その遺骸をかき抱く青年の背を黒い翼が突き破ると、彼の意識は失われた。混濁する視界に映った最後のそれは、顔の皮膚が剥がれ落ち真っ赤に微笑む悪魔の遺骸だった……。

 皆、誰しもが、筋肉と血と骨と脳味噌と内臓と、そんな生々しさで出来ている。美果も私も。この丸顔も表面をを剥がしてしまえば、そんな真っ赤な塊になり果てる。

 終の景色は、思考は、私の中身をありのままにぶちまけてくれていた。それはきっと、一生に一度きり許される、ほんとうの美しい景色の想像だ。

 間もなくして、バスは薄暮の浜辺へと出た。浜辺には、本土よりもひと足早く夏の気配が漂っていた。

 丸くてあたたかい空気だった。このまま、この南の島に取り残されてしまえたなら良いのに――ね、美果。

 紅色の紗がかかった頭の片隅で、私はふと、そんな馬鹿なことを祈ってしまっていた。

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