Canzone.
/3.
夕立上がりの空は、すっかり夏になっていた。
くたびれた脚で階段を上っていると、トランペットの音が聞こえ始めた。明るく、威勢のいい音だった。そろそろ五時といったところ。音の質からして恵美ではなく真白のものだ。
ロングトーンを主とした基礎練らしく、ほとんど毎日耳にする音の並びだった。サボりがちな恵美と違って、毎日部活を頑張っている真白の実力の伸び方は目覚ましい。少々雑で割れやすくはあるものの、うちの吹奏楽部の貧弱な金管たちと比べると随分しっかりしている。少なくともマトモな音が出ないより遥かにマシだった。メロディラインも頻繁にあり、目立って聴こえる箇所の多いトランペットなら特にその筈で、高音でへたって立ち消えになる恵美なんかより、後輩の真白の方が余程安心して聴いていられる。特にファーストは真白に任せてしまった方が、実際には良くなる筈だ。
階段を上りきると、果たして、音楽室前の廊下で真白がトランペットを吹いていた。真白の隣には一年の子もいて、真白にならってトランペットを構えていた。運動部の荒っぽい声が響くグラウンドと、その先の、穏やかな夕方の海に向けて。
真白は私に気が付くと、口からトランペットを離した。
「あ、真琴先輩っ。陽ちゃん先生から話があるって美果先輩が」
すると、呼ばれたようにして美果が音楽準備室から顔を覗かせる。私と目が合うとすぐに引っ込める。その拍子に美果の持つ譜面台から何かが落ちる。硬い音と共に、四角い銀色のチューナーが廊下へ滑るように転がった。
美果の慌てっぷりからも、先生からの話の内容は凡そ予想がつく。だいたい、それについての話で担任の呼び出しを喰らったばかりなのだから、川本先生からも呼び出される覚悟は最初から出来ている。
私よりも先に、真白はその足もとにまで転がったチューナーを拾ってくれた。手渡されるとき、真白はほんのり何かを期待するような笑みを浮かた。
「で、先輩先輩、もしかしてなんですけど、話ってもしかして期末のことですか……!」
私にしか聞こえないような、小さな声だった。
「ん、知らないけど、そうなのかな」
受け取りながら、内心、拾ってくれなければ良かったのにな、と毒づく。期待通りの反応だった。
「あれって本当なんです? 期末テストの話」
「テストって?」
「えー、わかってるでしょー。教えてくださいよぉ」
僅か、息をつく。僅かに安心してしまう自分がいた。楽しそうで羨ましい。決して責められそうなような雰囲気ではなくて、真白のことだから無邪気な好奇心そのままなのだろう、きっと。
「まーこー! はよ、こっち来る」
準備室で川本先生が声を張り上げていた。苛立っていそうな、キツめの声。チューナーを受け取るだけ受け取って、結局、真白には曖昧に首を捻ってみせるだけに留まった。
川本先生は、準備室の奥にある先生用の机の前に深く腰掛けていて、私の目をしっかりと見据えている。口元はわかりやすく、への字に歪んでいた。
「わ、真琴来たっ」
さっき顔を合わせただろうに、美果はおかしな驚き方をする。美果はフルートを片手に、所在なく傍に立っていた。そも、川本先生からああして呼ばれれば来ない訳にもいかなかった。逃げたりなんかすれば追い駆けられる。
「マコ、あんたどういうつもりなん。さっき美果にも聞いたけど、期末の五教科全部五〇点ってホントなわけ」
「まあ……」
「え、何、はっきりして」
「そう、ですね。ええ、恐らくはそうだと思います。記憶している通りなら」
実のところ、全て本当に五〇点だったかは不確かだ。それくらいだったと思う程度にしか、点数を覚えようとはしていなかった。
大きなため息を、先生はついた。
「マジ? なんで?」
大きく開かれた先生の目に力が籠る。怖い、と思ったことはない。でも、川本先生は容赦がない。どうしてそんなことをやったのか、当たり障りのない範疇で説明しても、この視線だけは逃してくれない。担任とかとは違う。どうでもいいと無下にはできない凄みがある。
言葉にしようとして、けれども言葉は喉の奥に引っかかったままになる。言うな、言ってはいけない、そう背後から囁かれる。もしかしたら壁からも。それは、そこにあってはいけない。そこには、この、これは。
口は開いた。そのまま、声にはならなかった。私はこれを表すことのできる言葉を知らないし、これそのものがここにあってはならない、あることができない。
「絶対わざとよね。この前までずっと学年トップ独走してたマコが急にバカになるとか、絶ッ対、ありえんから」
「そんなこと……先生が言っても大丈夫なんですか」
「だって事実じゃん。音楽だけフツーに満点だったし。何もないならこんなことしないでしょ。ウチにも言えんことなわけ?」
「……美果から聞いたんですよね」
先生は首を横に振った。
「逃げない。マコの口から聞いてない。このままだと部活に出せなくなる。この前から何点下がってると思ってるわけ? 言わないなら夏休みいっぱい部に来ちゃいけなくなる。ひと足早く引退になっちゃうけど良い?」
「そんなわけ」
停部。その単語が脳裏を掠めた。一番嫌なものを喉元に突きつけられて、いよいよその先を探る。何なら言える。私は、先生に、何なら言える。
「ごめん、先生。わざとやった」
「理由は?」
何を言えば、先生を納得させられる。何が事実にある。これは何だ。何がここにある。
「え」
「どうしてわざとやったのよ。あのまま成績ついちゃったら、マコ、どうなるかわかってんよね。誰かから何か言われたりした?」
「――何も」
息を詰まらせかけておいて、あれ、と思った。このままだと、どうにも勘違いされてしまってはいないか。それも、あまり歓迎できない方向に。そうではなかった。誰かに命じられたとか、そんなことは一切なかった。
「本当に、何もないんです。誰かから強制されたとか、脅されたとか、そんなのはありません。
よくある話、疲れたんです。テスト受けたらいっつも一位とか、もう……もう、要らないって。優等生ってよく言われるじゃないですか、どうせ。そんなの私、本当は嫌で、だから」
「は? それ、本当なの」
先生は手で前髪をかきあげて天井を見上げる。静かな空気が重い。美果も居心地悪そうにしていた。
軌道修正した途端、言葉はずるずると吐き出されていった。横で微かに美果が驚いていた。決してそれはこれを言い表してはいない。けれども、何一つとして伝えないよりはマシで、かつ明後日な方を向いた解釈をされてしまわないためのもの。その筈だ。
「マコ無理してるなー、って思ってたけど……」
思ってたの。そんな風に。
手を握られた。よく冷えていて、節くれだった手だった。先生は美果の手もとった。三角形じみていた。
「いい? あんたらニコイチってよくウチ言ってるけどさ、たまには先生も頼りなさい。支え合って共倒れ、とか笑えないから。いつでも話聞く」
返事は、と促されて私たちは頷いた。先生は、私たちの手を離す前にもう一度強く握り込んでくれた。私は少し持て余しながら美果の横顔を伺った。美果は神妙な顔つきをしていた。少なくともそう、私には見えた。先生は最後にもう一度、「良い?」と念を押してくれた。
フルートと教則本、譜面台を抱えて準備室を後にしようとしたところで立ち止まる。背中にこつんと軽い感触が伝わった後、美果の潰れ気味な小さい呻きが聞こえた。先生が軽く吹きだして――微妙に緊張したままの空気が軽くなった気がした。
「もー、止まんないでよ」
「前見て歩いてね、ちゃんと」
私も私で、口調を緩めないわけにはいかなかった。川本先生もけらけら笑っていた。
「先生まで笑わないでよー、もー」
「ごめんごめん、や、バッチリ見ちゃったわ」
こうして和めるなら、ドジなのも悪いことばかりじゃないのかもしれない。
けれど、そうしてはたと立ち止まってしまったのは、ひとつだけ不安が残されかけていたことに気が付いたからだった。
「……あの、先生、部活は」
「ん? あー……」
真顔で一拍置かれた後、川本先生はおどけたように破顔した。
「あり得ない。アレ、勉強しないのを部活のせいにさせないためのだし、マコ、今あんたが抜けたら色々ヤバい。わかってるでしょ、そんくらい。
ってか、ああーもー! ヤバいー! 時間ないー! 日曜にヤマさん来るのにー!」
のけぞってそう叫びながら、振り返った私に向けて、早く練習に行くように手で払って示す。促されるまま、今度こそ準備室から音楽室に繋がるドアを押し開けた。
入れ違いに、麻由が準備室に飛び込んでいった。ほとんど先生に抱き着く勢いだった。先生はもんどりうって椅子ごとひっくり返りそうになり、その様を見ていた美果はこっそり鼻で笑っていた。
避難の意味もこめ、私たちはフルートと演奏道具一式、それぞれの椅子を抱えて裏口から音楽室の外に出た。音楽室の裏には吹奏楽部以外ほとんど誰も使わない北向きの廊下があって、突き当りを曲がった先には、いよいよ人目につかない、非常階段へと繋がるスペースがある。廊下より多少開けたそこは、他の楽器の音にかき消されがちなフルートパートにとって、そして私たちにとってうってつけの練習場所だ。
「やっちゃったね」
譜面台を立てながら、美果が言った。
「真琴、ホントにやっちゃうとは思ってなかった、正直。何だかんだでいつも通りなのかなって。それがこれ、大騒ぎって」
美果はフルートの頭部管を外して唇に当てる。力強くてしっかりした音が伸びた。
「何でさ。っても、ここまで大袈裟なのは私も想定外。良くない? 別に、何点でも」
胴部管から下は椅子に置いて、頭部管だけに息をいれた。音は太く、安定している。息もしやすい。喉も震えていない。今日の調子はいい。音が冷静だ。
「ヒトのテストなのにねー。凄いじゃん、真琴、大注目。やー流石だわ」
「別に注目されたいわけじゃないんだけど」
「そうなの?」
「当然。無視してくれていいのにさ」
「割に、派手じゃん」
「どこがよ。私には関係ないとこで派手にされてるだけ」
私のAに美果のAが重なった。ぴったりと。耳の奥で振動するような不快感はなかった。
「合ってる」
私は言った。二人の音が一つになっている。私の確認に美果の音が、僅か、わざと下げられる。肯定の返答替わりだった。
「平均以下なんて取ったらもう推薦もらえないんじゃないっけ」
「別に良い」
「マジ?」
「マジ」
「頭良いひとの考えることはわかんないなー」
「美果」
――それ以上やめて、とまでは言えなかった。代わりに美果は、察したように口をつぐんでくれた。
海からの風が足もと過ぎていった。この場所で吹いていれば、世界から誰もいなくなった気分になれる。生徒の声が聞こえても、それはこことはまるで別の場所からの声。気に留める間でもない。余計なものの何一つ、ここにはいらない。
美果は指を一本立てた。
「じゃあ一個だけ、教えて?」
ロングトーンの合間で、私は頷いた。こんな音の日は、ずっと吹いていたかった。
「東山じゃなかったら、高校どこに行くの」
「白瀬」
「まさか。落とし過ぎでしょ、それ」
進学校から地元の学校へ。偏差値にして二〇か、それ以上の開きがある。建前はともかく白瀬の倍率は一倍を切るのが普通だから、偏差値の下限なんてあってないようなものだ。私のような奴があえて積極的に行く高校ではない――本来なら。
でも、行く高校くらい選びたい。オープンスクールを思い出す。あんな場所は御免だ。無駄に騒がしく元気のいい、あんな落ち着きのない場所は、最早それだけで行く気を無くす。尤も普通は、ウリにもなっているあの快活さを求めて目指す受験生の方が多いのだろうけれど。
「どうしてって訊いてもいい」
美果はまだ、練習しようとはしなかった。
「それは駄目」
「何でよ。ケチ。私にくらい教えてくれてもいいじゃんよ」
「ケチで結構だよ」
それでも言いたくなかった。そんなもの、馬鹿馬鹿しさの塊のようなものでしかない。それに、白瀬に行くことと期末の点数を落としたこととは全く違う話だった。
「他にいいとこあるじゃん。どこでも行けるのに」
「近いし」
「……白瀬だよ? わかってる?」
「わかってる。優等生のエリートごっこなんかもうやってらんない」
譜面台に立て掛けたファイルをめくる。
私が白瀬に行く理由はそれだけで構わない。東山には行かないから、じゃあ白瀬でいい。それ以外なんてどこも変わらない。東山より悪くないにしても、どこであっても行きたくはない。
練習すべき曲は山ほどあった。コンクールに港祭りにボランティア。夏の三つのイベントにあてがわれた譜面たちには、ひと通り軽く目を通しておくだけでも時間をとられてしまう。部活に来られない日の多い美果には、特に今日のような練習時間が貴重な筈だった。
「ねえ真琴」
それでも美果は食い下がってきた。ワントーン下がった声音だった。その後に続くであろう問を私は待った。美果の動きが妙に止まっていた。
「や、何でもない。やっぱ何でも」
「それって一番気になるパターンなんだけど」
「ホント何でもないんだって」
「ホント?」
「――いや、うん、あー……白瀬って」
一度動き始めた美果が再び止まった。何事かを考えているように。
「美果? 起きてる? 眠い?」
私は美果の前でフルートを振って茶かした。実際に眠そうには見えなかったけれど、その代わり、美果は私の隠した答えを当てようとしていた。そう思ったから。それは不必要だし、お互いに知らない方がマシに決まっている。
なのに私は、うっすらと期待してしまっていた。だからつついてみた。とんだ矛盾だ。
今、私が、こうして。だから――これでいい。違う、これがいい。
「起きてますー。マジで何でもないから気にしないで」
美果は私のフルートを鬱陶し気に払いのけながら口を尖らせた。
「そう」
私は、一先ずコンクールの曲から練習する。勝手に吹き始めた私に美果は不満をぶつけながら、自分のファイルから同じ楽譜を慌て気味に探していた。楽譜通りに音をなぞりながら、私は自分がどこを吹いているのかわからなくなっていることに気が付いた。知らないまま吹いていられるのだから、それ以上は望むべくもなかった。
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