Ouverture.

/1.

 私が美果の腕に刻まれた何本もの傷と傷跡の存在を知ったのは、去年の春のこと。

 中学二年生になったばかりのことだった。

 休日の学校、部活の午前練も終わった音楽室、はためいていたカーテンの奥、柔らかい陽射しの中、窓際に寄せられた机と椅子の一群の片隅。

 美果はひとりきり、その場所に座っていた。

 空っぽの椅子たちは扇状に並べられ合奏隊形になったまま放置されていて、私たち以外に誰もいない音楽室はいつもより広くて、グラウンドを素通りした潮風が勝手きままに吹き抜けていた。

 このときはまだ意識していなかったけれど――美果にはちょっとだけ、いや、割と結構、抜けたところがある。音楽準備室のドアで爪先をぶつけたり、譜面台に立て掛けた楽譜を思い切りひっくり返したり、その手のドジなら日常茶飯事だ。

 だからこのとき、美果は油断していたのだと思う。自分の足音ひとつすら学校中に響きわたりそうなくらい、人の気配が途絶えた学校のなかで。

 腕を切る行為そのものが、美果にとっては既に息をすることと同じくらいに自然のことになっていたのかもしれないし、だから当たり前に、誰もいない音楽室で腕を切っていて、ぼんやりと海を眺めていたかったのかもしれなかった。もちろん、誰にも邪魔されないことを前提として。

 美果は私を見とめると、少しだけ視線を窓の外に戻して、それからもう一度私の方を見た。呑んだ息が、密やかに、その喉を動かした。

 頬杖をついて剥き出しになった白い腕を、真っ直ぐな赤い線たちが鮮やかに彩っていた。 机には楽譜を挟んだファイルとフルート、銀色で細身のシャーペン、小ぶりなカッターナイフが置かれていた。

 私はこの時、それまで同じパートにいながらさしたる付き合いのなかった友人とやらに、近寄ってみようと思った。

「やめたほうがいいって言わないの」

 美果は、私に落ち着いた声色でそう尋ねた。私はその鮮やかな赤を静かに見詰めた後、

「やめたほうがいい」

 淡々と、問いかけに聞こえたままを返した。

「何それ」

「やめたほうがいいって言ってみただけ。やめたほうがいいって言われたいの」

「……何それ」

 美果は口元を歪めて微妙な笑みを浮かべ、小さく首を傾げた。思い返す程に、その表情は残酷な笑みに思えるから不思議だ。少なくとも、それまで見たことのない初めての表情だった。私はそんな生のままの顔の動きを目にしたことがなかった。

 慌てる素振りはなかった。けれど、そのままにしておくのは決まりが悪かったのか、美果は机の上のものを片付けようとその腕を伸ばした。

「もっと見せて」

 そう口走っていた。

「私、切ってみたい。私も、腕、切りたい」

 私は美果の腕をとった。全部仕舞われてしまうよりも先に、それだけは確実に伝えなければならなかった。

 そのときどうして私たち二人だけが音楽室にいたのか、今となってはもうその理由を仔細には思い出せない。でも、私たちにとって大事なのはそんなことではなく、そこにいたということそのものだと思う。

 うっかり、偶然にも見つけてしまった日常のほつれたちが重なってしまったのだ。遅かれ早かれ、美果が自傷行為に耽っている秘密が暗黙の了解として広まってしまうのだとしても、あるいは隠そうともしていなかった私の趣味の中身が美果に知られてしまうのだとしても、誰にも邪魔されないところでそいつらそのままを曝け出してしまえたとは限らない。私は、それまでの美果にならば、本心からの興味をさして抱いていなかった。この年から転任してきて新しく吹奏楽部の顧問になった川本先生が、互いに孤独だった私たちを仲良くさせようとしたとしても、もしこんなことがなかったとすれば、恐らくは今のようにはならなかっただろう。

 表向きの日常は、厳重なまでにそれらを隠し、隔てようとする。だから、ほんの些細な偶然であまりにも直接的に知ってしまったことは、私たちにとってとても大事なことだ。

 美果がうっすらと自分の腕に傷をいれているとき、私はそこにいあわせた。

 たった、それだけのことだった。

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