第26話 エピソード0(前)

 変なことをしているひとがいるな、と思った。


 人気のない王宮の裏手の森の中をふらふらと歩く、灰色ローブの魔導士。

 背格好から男性のように見える。

 顔はフードですっかり隠しており、判然としない。

 歩き回って、木に手をあて、しばらく佇んでから移動する。


(何をしているのだろう)


 そのひとに偶然気付いて、なぜか気になって、いつの間にかどこにいるか探すようになっていた。

 時々、王宮ですれ違う。

 きっと相手は、自分のことを知らない。


(でも、僕はあなたを知っている)


 すれ違うとき、気付いていることを気付かれたくなくて、目を伏せる。

 或いは、誰かと一緒のときは無理にはしゃいで、笑い声をあげながら通り過ぎる。


(本当は僕に気付いて欲しい)


 馬鹿みたいに騒いですれ違うときに、さりげなく、連れに名前を呼ばせるように仕向ける。

 ほんのひとかけらでもその人の耳に入ることを願って。


(あなたが誰なのかわからないから、こんなことしかできない)


 一度も話したことがないのに、気になるのはどうしてだろう。

 遠くからときどき姿を見かけるだけ。顔も名前も知らない。それなのに、ふと我に返ると考えている。心の多くを占めている。


(本人と話してみよう)


 決断するまでには半年以上かかった。

 時同じく、近衛騎士として鍛錬に鍛錬を重ねても伸び悩んでいた時期だった。悩みが多すぎる。

 そこからはもう、善は急げ。走れ。


 * * *


 その人は、よく王宮の裏手の森にいる。

 その日も、探すまでもなく見つかった。

 それが、なんとなく自分を待っていたようにも思えた。勝手に、そう解釈することにした。


「いつも何をしているんですか?」


 この一言まで半年。連日連夜頭の中でシミュレーションしすぎて、こんなあっさり言って良かった? と謎の動揺に襲われつつ、返答を待った。


「木の病気をみてる……。たまに瘴気が絡んでるのがいて」


 灰色魔導士は本当に何気なく返事をした。


(この人、しゃべるんだ)


 今まで人といるところを見たことがなく、声を聞いたのも初めてだった。

 恐ろしく澄んだ、硬質な声。

 見た目のぼさっとした印象とは違うその声質に、内心かなり戸惑った。


「それが仕事なんですか」

「仕事ではない。病んだ木の上で寝ると寝心地が悪くて。自分の寝る木だけ無事でいればいいかっていうと、そういうわけでもなく。うつるのかな。具合が悪いのがこの森のどこかにいると、なんとなくおさまりが悪い」


(仕事じゃなく、誰も見ていないのにやってるのか。本当に誰も見ていないんだよ。それとなくいろんな人に灰色魔導士のこと聞いたのに、誰もぴんときてなかったもん。誰の何の話? って。絶対出世しないよ)


 動機は自分の為っぽいけど。


「木の上で寝るんですか」

「下で寝るよりは落ち着く」

「さぼっているんですか」

「そうとも言えるが、そういう君は今何をしているんだ?」


(あ、開き直った)


「僕は今日、非番なんです。近衛騎士のクライスといいます」

「知ってる」


 クライスはそこで、目を瞠った。


(知ってる? 今まで話したこともないのに? どこで知る機会があったの? 知ってるって、名前と顔が一致してるってこと!? なんで!?)


 頭の中がぐるぐるしすぎて、言葉にならない。


「初対面ですよね」


 苦し紛れに、苦し紛れでしかないことを言った。


「話すのは初めてだ。今まで何度もすれ違ったことはある。近衛騎士が訓練しているところを見たこともある。それに君は、この森にもよく来ていただろう。君こそ、何をしに来ていたんだ? 良い昼寝の場所が知りたいというなら、そうだな……」


 明瞭かつ涼やかな声ですらすら話す相手を前に、呆然としてしまった。

 自分の悩み抜いた半年ががらがらと崩れる中、つい八つ当たりめいたことを口走ってしまう。


「気付いていたなら一度くらい声をかけてくれても良かったのでは!?」

「声をかけた方が良かったのか?」

「なんで無視してたの!?」


(ああもう、これ完全に八つ当たり……! 僕の馬鹿!)


「用がなかったから、かな」


(わかる。仕事上の絡みもないし、知り合いでもないからねっ)


「挨拶は? 同じ王宮勤めとして」

「今後はそうしよう」


 喧嘩腰で言われたことなど、なんでもないかのように灰色魔導士は請け負う。余裕。


(僕は半年もかかったのに)


「僕はあなたの名前も知らない」

「リュートだ」

「なんでいつも顔を隠しているんですか」

「顔が仕事をするわけじゃないから」

「僕は、防犯上の理由から気になります。たとえば、あなたの中身が曲者にすり変わっていたりとか、或いはあなたの恰好を真似て王宮の中を歩き回る曲者がいても、すぐにはわからないじゃないですか。そういうの、良くないと思います」

「なるほど、近衛騎士的理由からか」


 リュートはフードに手をかけてから、言った。


「君には見せよう。俺はこの顔をさらして歩き回る気はないが、何かあった際の面通しの為であれば致し方ない」


 波打つ銀の髪がこぼれ、あらわになったのは──

 人を射抜く、鋭い光を放つ翡翠の瞳。見つめられると、息が止まる。

 瞳だけではない。

 その顔だちの麗しさは、これまで見た誰よりも研ぎ澄まされていて、別世界の生き物を思わせた。


「人間の中に混じるには、いささか派手な顔らしい。いらぬ注目を集めたくはない。君以外にはもう誰にも見せる気がない」


 そのときの僕は。

 君以外には、という言葉のスペシャル感に酔う余裕もないほどにその素顔に打ちのめされていて。

 本当に、呼吸も瞬きもできないでいた。


「たしかに派手、ですね。ちょっとひきました」

「本人を前にして言うなよ。傷ついたらどうするんだ」

「ごめんなさい。その顔だと……、生きるのが大変そう。僕程度でも、女に見えるとか本当は女なんじゃないか確かめさせろと、しつこく言われています。特徴のある顔って、面倒かなって」


 眼光が鋭すぎる瞳。

 目を逸らしながら言うと、顎を掴まれて強引に顔を前に向けられた。

 心臓が、跳ねる。


「たしかにお前、女顔だな」


 目を見たら力を奪われてしまい、手を払いのけることもできず。

 女顔だ、なんて認めるわけにはいかないのに。

 断罪されるのを待つように見上げてしまう。


 リュートは、それ以上何を言うでもなく、顎から手を離して、だるそうに近場の木に背を預けてもたれかかった。

 決定的なことを言われなかったことにクライスはほっとしつつも、手を離されてしまったことを少しだけ惜しむ気持ちが湧いていて、そんな自分に密かに動揺した。


「せっかくですから、今度昼寝しやすい木を教えてください」

「さぼるのか?」

「一緒にしないでください、時間のあるときに来るだけです。あなたは明日もここにいますか?」

「いるだろうな。よそに行く理由がない」


(仕事は!?)


 つっこみたいことは多々あったものの、それ以上話すとぼろが出そうだったので、この辺にしておこう、とクライスは身を引く。


「では。また明日」


 別れの言葉に約束を込めて。

 その日はその足で、城下の雑貨屋で黒縁の眼鏡を買った。


(あの顔は何かの拍子に露出したら大変まずい。使ってもらえると良いんだけど。いきなり贈り物ってどうなんだろう。受け取ってくれないかなー。どうしよー)


 思い付きだけで慣れないことして、何やってんだろうって。

 その反面、渡したらどんな反応するかも気になり、次の日、ほんの隙間時間に会いに行くのが待ち遠しくて仕方なかった。


 今日、もっと話せば良かった。

 そんなことを考えながら眠りに落ちた。


 * * * * *


(いまの、クライス……? 珍しいな、だいたいいつも誰かと一緒なのに、一人で)


 雑貨屋を出て行った赤毛を見て、黒髪の青年は軽く首を傾げた。

 見たことも無いくらい、楽しそうな横顔。

 雑踏にまぎれて姿が見えなくなるまで見送ってから、雑貨屋のドアを開けて中に足を踏み入れる。


「いらっしゃいませ。おっと、クロノス様」


 何度か来た店だったので、白髪頭で好々爺めいた店主は顔をしっかり覚えていたようだった。


「今出て行った赤毛の……。あいつ、何を買ったんだ?」

「ああ、クライス様ですね。いつもは小物類を買われるんですが。今日は眼鏡です。野暮ったく見えるけど、カッコ悪すぎないのがいいとか」

「面倒な注文だな」


 思い出し笑いをしている店主に対して、クロノスも苦笑した。


「度が入っていないのが良いというので、変装用でしょうかね」

「野暮ったいけどカッコ悪すぎない、か。結局どれに落ち着いたんだ?」


 店主に確認して、クロノスは同じ品物を買い求めた。

 たいした理由はない。ただ、クライスの前でその眼鏡をしてみせたら、どんな反応をするだろうと思ったのだ。


(お揃いだなんて、二度と使えないって言ってさっさと処分するかな。しそうだなあいつ。気性激しいし)


 包んでもらっている最中、ぼんやり店内を見ていると、店主が何気なく言った。


「クライス様は、どなたかに贈り物にされるみたいでしたね。さりげなく渡したいから包装はしたくないけど、使い古しだと思われたくもないし、と。ずいぶん気を遣われる相手のご様子でした」

「ふーん? わからんな」


 クライスの交友関係といえば、近衛騎士でとりわけ仲の良いカインあたりが思い浮かぶが、そこまで気を遣うだろうか。

 よくわからないけれど、見覚えのある眼鏡をしていたら、会話のきっかけくらいにはなるかもしれない。

 どうもうまく話しかけるきっかけがつかめず、距離を詰め切れない今日この頃、何かの足しになればと。


 軽い理由と重い動機で買い求めた黒縁眼鏡をするようになったら、後日クライスに出合い頭にものすごい顔をされたが、特に何も言われなかった……。

 反応されたことに気をよくして、その後使い続けることになるのだが。


 クロノスが、黒縁眼鏡の贈られた相手を正しく知るのは、まだ先の話である。

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