第29話 忘却された世界

 気がつくと、ダイスケの目の前にはレンガ造りの真新しい砦がどっしりと構えていた。

 事情が呑み込めず、周囲を確認してみると、薄紫色の空の下では見える限り荒野が広がっており、随所に土の抉れた跡であったり、歪に削れた岩石であったりが転がっている。

 そこでダイスケは、この地が前線基地なのだと瞬時に理解できた。

 それでも、どうして自分がここにいるのかという疑問は解決しない。

「大丈夫か、ダイスケ?」

 聞き覚えのあるような声に、ダイスケは一旦思考を止めて、素直に顔を向ける。

 そこに居たのは、薄紫色の空の中でもハッキリと存在感を示す、燃えるような黒髪の女性だった。

 腰まで伸びた黒髪に、銀色が眩しいライトアーマー、そこからすらりと伸びた手足。

 そして端正な美貌の中でも目を引く、凛々しくも優しげな目元。

 間違いなく、ダイスケの師匠であった。

「し、師匠……?」

 どうして師匠が生きているのか、自分はベルたちと一緒に旅をしていたのではないか、そういった一切の疑問は、不思議と頭から消え失せていた。

 今自分が直面している場面こそが現実なのだと、信じて疑わなかったのだ。

「どうした? 気を張りすぎて疲れたか?」

 師匠はそう言ってダイスケに微笑みかける。

 そこでダイスケは自分が現在置かれている現状を悟った。

「いえ、大丈夫です。あと少しでこの地も制圧できますし――」

「そうか。だが、油断はするなよ。ここは戦場だ。気を張りすぎても、抜きすぎてもいけない」

「わかりました。師匠もお気をつけて」

「あぁ、ここの制圧が終われば、久々にゆっくりできるからな、それまでは気を抜かずに頑張るとしよう」

 年上ながらも可愛らしさを覚える師匠の表情。

 そこでダイスケは胸にチクリと痛みを覚える。

 まるで、何か嫌な事が起こるとわかっているかのような、漠然とした不安だけが胸中に広がっていた。

 しかし、まるで映画のフィルムが回り続けるかのように、ダイスケの意識を無視して世界はどんどん動き続ける。

 突然訪れた地鳴りと咆哮。

 緊急応戦の鐘が不規則に、乱雑に鳴り響く。

 休憩所から一斉に駆け出す同士たちに交じって、ダイスケと師匠も現場へと向かう。

「なっ――!」

 砦の前に広がっていたのは、無造作に転がる兵士たちの身体と、猛威を振るう一体のミノタウロスの姿だった。

 人間の倍の丈はあろうかという巨体を利用して、次々と死体の山を作り上げていく様は、まさに地獄絵図だった。

「これは、ひどいな……」

 断末魔の悲鳴と鈍い破壊音が絶えず繰り返される中、師匠は渋い顔を浮かべつつ、剣を構える。

 それを見てダイスケも慌てて剣を構えた。

 被害を見れば、戦力差は歴然だった。

 それでも、人々を守るために、自分たちは戦わなければならないのだ。

 ダイスケの手が無意識に震える。

 それは当然のことだった。

 本能的な恐怖、生命の危機、それを肌で感じて悠然と戦うなど、普通の人間には到底できる芸当ではない。

 みるみる内に減っていく仲間の兵たち。

 部隊は半壊滅状態に陥っていると言ってもよかった。

 だからといって、逃げることなどできるわけもない。

「いくぞ、ダイスケっ!」

「はいっ、師匠っ!」

 師匠の言葉を合図に、共に駆けだす二人。

 だが、足場の悪さもあって、十分な加速が得られない。

 そのせいか、中々ミノタウロスに近づくことができずにいた。

「くそっ、近づけない……」

 攻撃範囲外から飛んでくる、ミノタウロスの拳。

 近くを通っただけでも風圧で髪が震え、土埃が舞う。

 せめて、もっと平らな床であったなら、それなりに戦えたのだろうが、それは無い物ねだりにしかならない。

「――くぅっ!」

 ダイスケの前方で、師匠がミノタウロスの拳を剣で必死に受け流す。

 しかしながら、あまりの威力に衝撃を流しきれず、師匠の顔が苦痛に歪んだ。

 その間も兵たちは自らの武器をミノタウロスの身体へと突き立てようとするが、すべて跳ね返されていく。

「なんだよ、バケモンかよ、コイツ!」

「おい、気を付けろ。来るぞっ!」

「うわぁぁぁぁぁっ!」

「ぎゃあぁぁぁ――」

 思わず目を背けたくなる光景。

 仲間が消えていく瞬間。

 心がいくつあっても足りないと思えるほどの、死闘。

 ダイスケは泣きそうになりながらも、必死で剣を振るっては、引き下がってを繰り返していた。

「師匠、どうすれば……どうすればいいんですか」

「諦めるな。必ずチャンスはある」

「は、はいっ……あっ!」

 それはダイスケが攻撃のためにミノタウロスの間合いまで飛び込んだ時のことだった。

 着地の瞬間、バランスを崩してダイスケの身体が大きく揺らいだ。

 そこへ飛んで来るミノタウロスの太い腕。

 骨折などでは済まないのは、気配でわかった。

「うわぁぁぁぁぁっ!」

 情けない悲鳴がダイスケの喉から上がる。

 そんなダイスケを襲ったのは、致死の一撃などではなく、何かに突き飛ばされたような、もっと軽い衝撃だった。

「……あれ……生き、てる?」

 地面を転がった後、視点が低くなった状態から、ダイスケは状況を把握しようと目を凝らす。

 どうやらミノタウロスの攻撃の範囲からは外れているらしいことがまずわかった。

 攻撃がぶつかる瞬間、師匠が突き飛ばして助けてくれたこともわかった。

 そして、ミノタウロスの目の前で片膝をついている女性がいることもわかった。

「し、師匠――どうしてっ!」

 立ち上がり、駆け寄ろうとするダイスケ。

 だが師匠は振り返ることなく、首を横に振る。

「もし、私が死んだら……逃げろ。生きるんだ」

「それじゃあ、師匠が――」

 ダイスケが再度呼びかけたところで、師匠は一度だけ振り返る。

 そして子を愛する母親のような微笑みを浮かべた。

 瞬間、ミノタウロスは師匠の身体を、まるで人形遊びでもするようにつかみ、持ち上げる。

「ぐああぁぁぁっ!」

 師匠の口から絶叫が上がる。

 骨も内臓もきっと無事ではないだろう。

 それでも、師匠は手に持った剣を放さなかった。

 その姿に騎士としての勇士を見て、ダイスケは胸が張り裂けそうになる。

 更に高く持ち上がっていく師匠の身体。

 その間、他の兵士たちがミノタウロスの胴体や脚へと攻撃を加えていくが、びくともしない。

 誰の目にも、師匠の死は確定したものに映っていた。

 苦しむ師匠の顔、それを愉しむようにミノタウロスは自らの顔の前まで持ち上げ、ニヤついた笑みを浮かべた。

 もう、握りつぶされて絶命するのは時間の問題だった。

 そんな最後の瞬間だった。

 夜空で消えゆく花火が煌めくように、苦悶に歪んでいた師匠の瞳に一瞬だけ力がこもる。

「人間を、舐めるなぁぁぁぁぁっ!」

 力の限り振るわれた師匠の剣。

 その軌道はミノタウロスの顔に届かず、側頭部より生えた角へとぶつかり、切り落とすにとどまった。

 すると次の瞬間、悲鳴のような咆哮が周囲に響いた。

 ミノタウロスは師匠を放り出すと、上体を後ろへと反らしながら頭を抱える。

 師匠は受け身を取ることもなく、地面へと落下した。

「師匠っ!」

 その時、ダイスケの中で何かが振りきれた。

 ダイスケは剣を手にしたまま、全力でミノタウロスとの距離を詰めていく。

 そして、ミノタウロスが上体を戻し、整えるまでのわずかな瞬間に割り込むように、一気に跳躍した。

 無我夢中での行動だった。

 突如として視界に現れたダイスケの姿に、ミノタウロスは反応できず、硬直する。

 その隙をダイスケは見逃すことなく、一気にもう片方の角へと剣を叩きつけた。

 鋼鉄のような皮膚とは比べ物にならないほどに角は柔らかく、滑らかに剣を受け入れていく。

 両角を切り落とされたミノタウロスは咆哮を上げることもなく、ダイスケが着地すると同時に後方へと倒れ込んだ。

 湧き上がる歓声。

 緊迫した空気が、急速に弛緩していくのがわかる。

 だが、ダイスケの視線は足元で動かない師匠から離れることはなかった。

「……師匠。俺、やりましたよ」

「そう……か」

 わずかに師匠の瞳が開く。

 するとダイスケはすぐさま屈んで師匠の状態を抱え上げる。

「よかった。師匠、生きてて……」

 ダイスケの目元は涙で溢れていた。

 しかしながら、師匠の視線はうつろで、中空の一点をぼんやりと見つめて、ダイスケの姿に気付いている様子はない。

「ダイ、スケ……」

「なんですか、師匠?」

 師匠の言葉を、一字一句を聞き漏らさまいと、ダイスケは師匠の口元に顔を近づける。

 すると、吐息のようなかすれた声で、師匠は最後の言葉を紡いだ。

「悔いが、ないよう……生き、て」

 師匠の両目が閉じる。

 それと同時に、師匠の全身から力が抜ける。

 両腕に感じる重さに、ダイスケは声にならない叫びを上げた。

 せっかく勝てたのに。

 喜びたい瞬間なのに。

 ダイスケの叫びを受けてか、世界は急激に光を失っていき、周囲は暗闇に染まっていった。

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