第5話 契約

「これ、結構いけるかも」

 口をもごもごと動かしながら、ベルは木のさじを手に取り、牛肉の煮込みを口に運ぶ。

 木製の黒っぽいテーブルの上には、パンの乗った皿と汁物の入ったボウルが、ベルとダイスケのそれぞれの前に置かれており、空腹を刺激する匂いが湯気と共に上がっていた。

 ただ、王都での貴族同然な暮らしが長く続いたダイスケにとって、両手を使ってガツガツと食べ進めるベルの姿は、新鮮で、愛おしいものだった。

 口の周りにパンやスープの跡をついている辺りも、微笑ましい。

 すると向かいからの視線に気付いたのか、ベルの視線が食事からダイスケへと向けられる。

「ほら、ダイスケも食べないと。冷めちゃうよ」

「あぁ、そうだな」

 ベルに指摘され、ダイスケも皿からパンを手に取ると、ちぎって口に放った。

 決して質の良いパンではないが、どこか懐かしく、香ばしい風味が口に広がり、甘い空気を肺にもおすそ分けしてから鼻へと抜けていく。

 身体が忘れかけていた感覚が呼び戻されていくようだった。

 一旦パンを皿に戻して、ボウルとさじを手に取る。

 汁物は底の浅いスープ皿で食べることが多かったが、こうして手に持って食べるという動作も久しぶりだ。

 若干とろみのあるスープをさじですくい、口へと運ぶ。

 強い旨味と塩味、ほのかに広がる酸味、そしてほろけた牛肉の食感が咥内で新たな美味を作り出していく。

 手近な店を提案したつもりだったが、これは当たりかもしれない。

 料理の味だけではない。

 経年によって変色してはいるものの、壁や床、テーブルやイスといった備品まで、店の歴史を感じさせるたたずまいとなっている。

 昼時からズレていることもあってか、店内の客もまばらで、中央付近にある酒飲みグループの席からは、あそこの家の主人が怪我をしただとか、どこの酒が安いだとか、他愛ない会話が聞こえてくる。

 こういった大衆食堂特有の賑やかな雰囲気は嫌いではない。

「だから、今まで続いてるんだろうな……」

 ダイスケは感慨深くつぶやき、スープを口へと運んだ。

 そこへ、ベルが話しかけてくる。

「ねぇ、ダイスケはこれからの予定とか考えてるの?」

 不意に呼びかけられ、顔を上げてみると、そこには真剣な顔でまっすぐにダイスケを見据える、ベルの顔があった。

 ただ、その口の周りには相変わらず食べこぼしがくっついている。

「――っ、そう、だな。とりあえず、路銀を稼いで……ぶふっ」

 笑い出しそうになるのをこらえようと努めながら、ダイスケは答えた。

 その理由に気付いていないベルは語気を強めて続ける。

「ちょっと、本気で考えて言ってるの? こっちは、真剣に考えて――」

「いや、本当にゴメン。だって、口の周り……ほら、拭って」

 差し出されたナプキンで、ベルはようやく笑いの原因に気付いたらしく、途端に顔を紅くして、口元を一気に拭き取った。

「ほら、これでいいでしょ。ちゃんと答えてよ」

 元の愛らしい顔に戻ったベルに、落ち着きを取り戻したダイスケは、一息ついた後に改めて口を開く。

「悪かった。俺の予定は当面は路銀集めだ。小さなギルドにでも寄って仕事を探そうと思ってる。でも何でそんなことを聞くんだ?」

 至極当然なダイスケの問いに、ベルは顔を一瞬目を見開き、わずかに視線を落とすと、少しの間考え込む。

 そして意を決したように再びダイスケの目を見上げると、ハッキリとした口調で語り始めた。

「その、予定がないんだったらアタシと一緒に旅をしない? 路銀だったら当分は大丈夫だと思うし――」

「それはいい話ではあるけど……」

 ベルの提案は、ダイスケにとって、大変魅力的な提案に違いなかった。

 一人よりも二人の方が見つかるリスクが低くなることに加え、路銀の心配が減るだけでも精神的にずっと楽になる。

 しかし、すぐに首を縦に触れなかったのは、ダイスケ自身が特別な身分であるということにある。

「ここって、ラインヘッドからそんなに遠くないでしょ? しばらくしたら、追手みたいなのもやってくるんじゃない?」

 ベルの指摘に、ダイスケは目を丸くする。

「どうして、それを――」

「さすがにわかるわよ。あんな状況でアタシについてくるだなんて、誰かから逃げようとしているとしか考えられないもの」

 言われてみれば当然だが、それをベルが冷静に分析していたことに、ダイスケは驚いていた。

「それで、ついてくるの? こないの?」

 有無を言わさぬ剣幕で、決断を迫ってくるベル。

 さすがに、これでは回答の先延ばしは無理そうだ。

 それにベルの戦闘レベルを考えると、とても一人で旅をさせられない。

 このゼノバックで何かしたいというのなら去ってもよかったのだが、これからも旅を続けようとしているのだから、心配するなという方が無理な話だ。

 むしろ、ベルの方から声を掛けてきてくれて安心した部分すらある。

 路銀の心配もいらないと言うのなら、ここは最後まで面倒を見るというのも一つの生き方だろう。

「わかった、俺も一緒に行くよ」

 ダイスケの言葉に、ベルの顔が急に明るくなる。

「やった。ダイスケがいれば百人力ね」

「そんな大げさな」

 愛想笑いを浮かべながら、ダイスケは食事を再開しようとする。

 しかし、ぐいっと引っ張られた袖の感触によって、それは阻止された。

「んっ?」

 何事かと隣へ顔を向けるダイスケ。

 そこに居たのは満面の笑みを浮かべたベルだった。

 いつの間に装備したのか、背中には剣を背負い、右手には荷物袋が提げられている。

 準備万端といった様子だ。

「さぁ、行くわよ」

「いや、まだ食事が……」

「だったらアタシが手伝ってあげる」

 そう言って、ベルは空いている左手で素早く皿の上からパンを掴むと自身の口に詰め込む。

 頬袋に餌を溜め込むリスみたいになっているが、そんなことはお構いなしらしい。

「ほあ、いひなひょ」

 口をもごもごと動かしながら、ベルはダイスケの袖を引っ張る。

 だが、ダイスケもされるがままではない。

 最後の抵抗とばかりにボウルを口に運び、ギリギリまで食事の時を続けようとする。

 数分後、言葉を交わさない勝負を耐えきったダイスケは、ボウルをテーブルに置いて立ち上がった。

「ごちそうさまっ」

 挨拶が店員に届くよりも早く、ダイスケの身体はベルに引っ張られて入口へと向かう。

 さすがに、これでは周囲の視線が恥ずかしい。

 かといって、ここから体勢を持ち直すのも至難の業だ。

 その時、ダイスケの頭にとある疑問が浮かぶ。

「なぁ、ベル……代金はちゃんと置いたか?」

 ダイスケの言葉に、ベルの動きがピタッと止まった。

 ベルは無言のままダイスケの前を素通りして食事をしたテーブルへと向かっていく。

 そして、テーブルの上に数枚の硬貨を置いて、再びダイスケの元へ戻ってきた。

「……行くわよ」

 それだけ言って、ベルは足早に店を出ていく。

 その顔は少し赤らんでいて、ダイスケは思わず口元を緩めた。

「あぁ、ごちそうさま」

 背後から聞こえてきた、元気な子供だと笑い飛ばす声を聞き流しながら、ダイスケはベルの小さな背を見つめていた。

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