第30話 罪深きは恋
空に朱が混じりはじめた頃、開け放たれた表門の外に集められた兵士たちの様子に異変があった。
瞳に赤みを帯びて、少しぼうっとした表情になり、立ち尽くす。
武器を敢えて奪わなかった彼らは、「血と鋼」の魔法の影響下に入った。
(これはこれで、計算通り。「血と鋼」がここに魔力をつぎ込むというのなら、魔導士同士の戦闘はこちらの優位に進むはず)
「それにしても、俺はああいう感じだったのか」
部下たちの変貌を目にして、ジークハルトは冷静な感想をもらした。
補足するように、淡い笑みを浮かべてそばに佇む「時」の魔導士へと語りかける。
「魔法を受けていた間の記憶はかなり曖昧なんです。ふと我に返ると血塗れで、傷だらけで……。でもほっとした。意識を取り戻した自分がまだ生きていることと、死にゆく者の顔をよく覚えていないこと。命を奪い取る実感が薄ければ、また戦えると思っていたから。罪を重ねる怖さをまぎらわす、あれはそういう──」
そこで口をつぐんで、軽く目を閉じる。
少年の面影を濃く残す横顔に、深い寂寞が漂う。
隣に立っていた「時」の魔導士は、その彼の腕に細い指で掴みかかり、揺すぶった。
「ジークハルト王、ジークハルト王」
「ジークハルト、と。あなたの声にはそう呼ばれたい」
閉ざしていた瞳を開き、視線を向けて口元に儚い笑みを湛えた。それを見返して、少女の姿の魔導士はいささかムッとした表情をした。
「それではわたしも要求する。思い出に沈むな。心はここにいてくれ」
「ここに……」
青年王は身体ごと向き直り、その顔を見下ろす。
「俺はずっと、あなたのそばにいても良いのですか」
一瞬、少女は唇をきゅっと引き結び、ひるんだ目をした。
それを見て、ジークハルトは限りなく優しい声で囁いた。
「困らせたくない。もう行きます」
「ジークハルト……」
菫色の瞳から逃れるように、ジークハルトは少女の背に手を伸ばす。舞い降りた羽を受け止めるかのような弱い力で抱き寄せた。
髪に、触れるか触れないかの口づけを落とす。
「祝福を頂きました」
すぐに身体を離して踵を返す。立ち去ろうとするその背中に向かって、少女は声を上げた。
「ジークハルト!!」
名を呼ばれ、肩越しに振り返る。
その顔を見て、少女は渋面で言った。
「わたしは困ってなどいない」
「いいえ、俺の申し出に対し、はっきりと困っていました。他の誰かを気にしたのでは?」
隣は、他の誰かの為のものではないかと。
無理しなくてもいいのに、とジークハルトは目だけで言う。
それを正確に受けとめたらしい少女は、苛立ったように片手を大きく開き、もう片手は胸にあてて言った。
「わたしの隣には、いつもアリエスがいた。アリエスはわたしのものだし、わたしはアリエスのものだ。でもそれは、わたしの生が眠りに侵されているからだ。わたしはずっとアリエスを縛るだけで、自由にしてあげられなかった……」
(おそらくそれはあの美貌の大魔導士の人生最大の幸福ですよ)
ジークハルトは言うべきか逡巡した。言うのは簡単だったが、それは部外者ではなく二人で解決すべき問題なのではないかと。
――アリエスはわたしのものだし、わたしはアリエスのものだ。
この告白自体、果たして自分が聞いて良かったのか。
しかし、その一言をこれまで二人に知らせる者がいなかったのが、今の二人の関係を決定づけ。
のみならず、この先の二人をも形作っていくことになり。
「わたしは、アリエスを自由にしてあげたいんだ。今まで、怖くて、どうしても手を離すことができなかった。わたしの……、わたしの寿命が先に尽きると知っていたら、もっと早く決断したのに。この先アリエスの隣にいるのはわたしではない。わたしの隣には誰もいない。誰かがそこにいるなんて考えもしなくて……困ったとすれば、そこなんだ」
二人のもとに歩み寄ってきていたディアナは、会話を耳にして、力なく首を振った。
「魔導士様……。アリエスが聞いたら幸福一転絶望のどん底みたいな……。すごい、人はこうも華麗にすれ違うことができるのかという見本のような……」
一方、小首を傾げて考え込んだジークハルトは、眉を寄せて魔導士を見た。独り言のように呟いた。
「隣に誰もいないなら、俺がそこに名乗りを上げても構わないのか……?」
「おやめなさい! そんな考えはすぐに捨てなさい!」
すかさずディアナが叫んだが、ジークハルトはちらりと視線を向けると淡々とした口調で言った。
「しかし、魔導士様はアリエス様の解放を宣言されたわけですよ。アリエス様ですよ。冷静に考えてください。世の男女が放っておかないですよ」
「ジークハルト陛下、妄想はそこまでで」
「姫は、どうお考えになります。アリエス様が失った恋に傷ついて、食事も喉も通らないと言い出したら、どうします?」
ジークハルトの実にさりげない問いかけに対し、ディアナはつられてその妄想に付き合ってしまった。
「弱ったアリエス……。たぶん何も心配はいらないからと言いくるめて監禁して世話を焼きたくなるわね……。普段があの誇り高さだというのに、弱みなんか見せられたらちょっと無理。監禁する」
「わかります」
恐ろしく研ぎ澄まされた微笑みを湛えて、ジークハルトが爽やかに同意を示した。
「あ、いえ、今のは……ッ」
「わかります。少しばかり長く、百年単位の片思いをしていたとはいえ、破れてしまえばただの失恋です。失恋は失恋です。失恋の前には皆平等です。百年二百年を慮って、叶わないなんてあんまりだなんて、周りが遠慮してお膳立てする必要なんてない。恋は自由であっていい。別れる二人がいるなら、誰かが横から奪ってもいい」
「ジークハルト陛下……」
ディアナが額をおさえた。国際問題級の暴言を飲み込んだ表情だった。
形式上の婚約者は、うつくしき姫に対して実に堂々と下衆い発言をした。
「奪う女がいてもいい。アリエス様はお任せします」
二人のやりとりを見ていた魔導士は「片思い、失恋……?」といぶかしむように首を傾げており、本気でわかっていない様子なのが見る者の胸にある種の壮大な恐怖をかきたてた。
ディアナは目を閉ざし、微かに震えながら口元を手でおさえつつ言った。
「魂が結びつきすぎて、恋という認識の外にいらっしゃるのでしょうか。恋であってもいいんですよ、むしろアリエスはずっと恋であってほしいという思いはあったのではないかと……」
それ以上言葉にならずに絶句する。
「何を言っているのかよくわからないが。わたしは起きている時間が短いので、アリエスほど見かけ詐欺ではない。実際に生きてきた時間は外見とそれほど齟齬がない」
「お子様!! よくわからないで済ませてキリっとしていないで、アリエスに誠心誠意全身全霊で謝ってください!! 可及的速やかに!!」
偉大なる「時」の魔導士に対して、姫君はついに本音をぶちまけた。
無言のまま、ジークハルトが動いた。
切りかかってきた兵士の一人を、振り返りざま、木剣で打ち倒す。
「『血と鋼』が動いています。下がっていてください」
警告は速やかで、体さばきは目で追うのが困難なほど鮮やかに、振るわれる木剣はまるで重みなど感じさせず。正確に迫りくる兵士たちを薙ぎ倒す。
「俺はここにいる。俺の首を狙え!」
表門の位置に立ちはだかり、誰一人通さずに剣を振るう。
「『血と鋼』の支援を受けていたからだけでなく、純粋に強いのね……」
ディアナはその後ろ姿を見て、感嘆をもらした。
迷いのない動き。
四、五人殺到しても、その剣筋がすべて見えているかのようだった。討ち損じることなく、綺麗に倒していく。すでに足元には昏倒した兵たちが転がっていた。彼らが踏まれないよう配慮したのか、ジークハルトは跳躍で超えて戦線を先に置いた。
その様を見ながら、魔導士はほっそりとした指を組み合わせて祈るような仕草をする。
「しかし木剣だからな。耐久値を考えると……」
目がジークハルトを追う。指の組みを解くと、一本の指でジークハルトを指す仕草をした。
「木剣の強度を上げているのですが」
「いや。最良の時点に固定している。あの勇猛ぶりだと、いずれ折れる。それを防ぐ。武器がなくなったら落ちている剣を拾いかねない」
ジークハルトがさらに先へ行く。魔導士もまた、前のめりに歩を進めた。
「わたしのそばにいるという割には、遠くへ行こうとする」
小さくぼやきつつ。
「危なくはないですか!」
呼び止めたディアナに、魔導士は目をしばたき、亜麻色の髪をなびかせて、ふわりと笑った。
「平気だ。わたしに何があってもジークハルトが守るだろう」
全幅の信頼を置き、心を許したかのような温和なまなざし。
「罪深い……」
戦場で仲間を信頼する、それ自体は決して責められることではないと知りながらも、ディアナは頭を抱えて言わずにはいられなかった。
視界の先では、「時」の魔導士の存在を察知したジークハルトが、そちらに向かおうとした兵士を危なげなく叩き伏せ、魔導士にちらりと視線を流していた。ほんの一瞬。
この上なく幸せそうな笑みを唇に、すぐに前に向き直って、向かい来る兵士に対してさらなる戦闘に身を投じた。
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