第29話 ただ愛のために

 日が傾き始めた。


 表門方面から予想した騒ぎが起きて、予想の範囲内だからと魔導士二人は動かなかった。

 警戒はした。

 それは、草を踏みしめて姿を隠すでもなく悠々と現れた。


「アリエス。久しぶりだな」


 澄んで明るく、少年のような声だった。

 魔導士らしいローブをまとうでもなく、大仰な格好をするでもない。腰には剣を下げている。ずば抜けて高いわけではないが、ほっそりとした長身で、女性と見まがう、ろうたけた美貌の持ち主。艶やかな蜜色の髪は肩を過ぎる長さで、後頭部でゆるく束ねてあり、瞳は紅。

 名を呼ばれた大魔導士はわずかに目を細めて、その姿を見た。いぶかしむような視線を受けて、狂気の魔法の使い手「血と鋼」は笑みを深める。


「アリエス。今気づいた?」


 ファリスが、剣を抜き放ってアリエスの前に立つ。それを楽し気に見てから、言った。


「エンデの元へ行った方がいい。私の魔法を受けたロアルド相手に一人では分が悪い。死ぬぞ」


 ファリスは無言で剣を構えたまま。

 その後ろ姿を見つめてアリエスは「行け」と短く命じた。

 ほんの一瞬の逡巡、ファリスは振り返り切らずに、アリエスに横顔をさらす。

 それを目にしてアリエスは顔をしかめた。どうしようもなく、苦く。


「行け。振り返るな」

「……行きます。ご無事で」


 ファリスの視線はさまよい、唇がわずかにわなないていた。そのまま、アリエスの視線を避けるように駆けだす。

 木立に姿が消える。

 それを待っていたわけでもないだろうが、紅い瞳の魔導士は渋面のアリエスを見て笑った。


「ファリスは、母親に似ているんだ。私とは横顔が似ていると言われていたね。とはいえ、お互い自分の横顔を見る機会なんてないから、実際どの程度かよくわかっていないけど。似てた?」


 からかいを含んだ声。アリエスは痛みを紛らわすようにこめかみを指で押した。


「どうして誰も言わない。あいつ、愛だなんだと言っている場合だったのか」

「私は『時』のドちびみたいな千里眼はないけど。アリエスはファリスに、実の親殺しのススメでもして、後悔真っ最中ってとこ? いいねえ、相変わらずだ。ドちびも相変わらずなんだろ。二人でつるみはじめて何年だっけ。今日は何、耳が爛れそうな綺麗ごとを聞かせに来てくれたのかな。人を殺しちゃいけません、とかさ」


 初っ端から石を飲み込んだかのように口数を減らしたアリエスに対し、紅い瞳の魔導士は実になめらかに話して、くすくすと笑い声を上げていた。


「いつか誰かが私を殺しに来るとは思っていたけど、アリエスだったか。アリエスは私のことは嫌いかもしれないけど、私はアリエスのこと好きだよ。知ってた?」

「エイリード……」


 思わずのようにアリエスの唇から旧友の名がこぼれる。


「古い名だな。私は『血と鋼』だ。この国に血禍を招き、この先も世を乱そうという者だ。ここで殺しておこう。それがいいよ。アリエスの手にかかるなら満足だ。ずっと待っていたかもしれない」


 紅く染まった瞳を見開き、唇には笑みを浮かべて歩を進める。


「ねえ……アリエス。殺しなよ。『時』が来る前に決着をつけてしまおう。どうせ『時』は弱ってるんだろ。見境なく魔法を打つから。死期が迫っているのは自分も同じなのにね。次の眠りはもうない」


 距離を詰めて、毒を注ぎ込むようにアリエスの耳に囁く。


「一人でこの先を生きていくのは怖い? 怖いなら私がアリエスを殺してあげてもいいよ。どうせ繋いだって意味のない命だ。『時』を失って生きていくのは、本当に救いのない日々になるよ」


 似ている、と思い知る。

 おっとりとした微笑み方が、たしかにファリスに似ている。

 アリエスはためらいながら、手を差し伸べて、「血と鋼」を包み込むように抱きしめた。


「お前は救いのない日々に飽いて、世界を呪ったのか」


 抱きしめられて、肩に顔をうずめながら、「血と鋼」は真っ赤な瞳を閉じた。


「……うん。魔導士の不文律を破った。人間を愛した。愛すべきではなかった。愛なんかいらなかった。間近で私が愛するものを喪い、狂う姿を見ていたせいだろう、ファリスはずいぶん怯えている。かわいそうな子だ。きっと不老長寿を謳歌できない。人間の中で育ててしまったせいだ」

「何が間違いかなんて。あいつは、俺に愛を語ったぞ。この俺に、正面切って。愛のなんたるかを知れと。そういう奴だぞ。何が間違いかなんて、お前が決めてやるな」


 苛々する。

 「血と鋼」が剣を抜こうとしている。自分を殺そうとしている。それを優しさだと思っている。本気で思っている。

 生かさないのが、殺してしまうのが、優しさなのだと勘違いした結果が今の彼だというのか。


「私はね……。まだ少女だったあいつの母親を見つけてしまって。本当に、徹底的に容赦なく愛し抜いたよ。彼女が私より先に年老いていくことなんか全然構わなかった。あんなに早く死ぬなんて思ってなかった。たったの数十年、一緒にいることも許されなかった。世界は私と彼女に何をしたのか、思い知ればいい」

「エイリード。どうしようもない苦しみの中で生きているのはお前だけじゃない。そういうのは」

「知っているよ。それが何。アリエスの綺麗事は疲れるよ。同じこと、お前は『時』を失ってからも言えるのか」


 腕から逃れて、「血と鋼」は片手で抜いていた剣をアリエスに向ける。胸に切っ先を向けられて、アリエスはその顔を見返した。

 その性質上。

 「血と鋼」の魔法は争い事と親和性が高かった。長く堕ちなかったのはその温和な性格故で、堕ちてしまったのは大き過ぎる喪失故だったというのだろうか。


(魔導士が……。堕ちると決めた魔導士を止めることはできない。たいてい、道を外れる瞬間は静かだ)


 多くの関りがあった周囲の者が彼を引き止められなかったのだ。

 アリエスは、剣の先を指でつまんで、言った。


「『時』の持つ不老長寿は目的ではないな」


 「血と鋼」が剣を軽くゆすり、アリエスの指は容易く傷つけられて血が流れた。


「『時』の魔導士が生涯で一度だけ使えるという魔法を所望する。その寿命が尽きる前に。私のために使ってから、死んでもらう」


 簡単に、死ぬとか殺すとか。

 死ぬとか殺すとか、そればかり。


「俺が。その言葉を『時』に向けられたら、絶対に許さないのは知っているよな」


 紅い瞳に愉快そうな光が瞬き、唇からは笑いがこぼれた。


「知っているよ。お前自身より、ずっと深く深く知っている。ファリスに、愛を語られたって? 面白いよね。そのファリスに愛を教えたのは誰だ。私はお前よりずっと愛を知っている」


 アリエスは剣の先を手で振り払い、離す。下に向けた指からは血が滴り落ちた。


「お前は無理な魔法を行使して、寿命を削った。のみならず『時』を目覚めさせておびき寄せその命を削った。よくも彼女を巻き込んだな。死ぬなら勝手に死ねばいい。殺してくれとか殺してやるとか。寝言か」


 押し殺した声に怒気が宿る。


「本当に『時』が来てくれたから、少し考えが変わったんだけどね。『時』はあの唯一の魔法を、まだ行使してはいないよね。欲しいんだ、どうしても。それで『時』の寿命が尽きるとしても。欲しいんだ」

「誰にも」


 ことさらに低く硬質な声でアリエスは宣言した。


「彼女は、誰にも渡さない」


 アリエスの身体から白い光が迸り、黒髪が舞う。ばちばちと細かな雷がその身を取り巻いた。

 「血と鋼」は笑みを深めて、アリエスを見返し、その指から滴る血を見た。


「そうなるよね。いいよ、殺し合おう。私達の世代では最強と言われた、『閃光』の魔導士。その本気の力、見せてもらう」



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