第28話 青年の懊悩

(寝てる)


 水色の空に、朱が差す少し前。

 自室の寝台の上で気持ちよく眠る少女を、ジークハルトは見下ろしていた。


 枕にふんわりと広がる亜麻色の髪。乳白色の陶器のような頬はほんのりと色づいていて、通った鼻筋や小さい唇は作り物めいた可愛らしさだった。薄い掛け布の下で、胸が規則正しく上下している。

 伏せられた長い睫毛を見ては、目を開けてほしいと願いながらも、気が付いたらずいぶんと長い間見つめていた。


 可愛いとか、守りたいとか。


 思考はいささかぶっ飛んで、自分に子どもがいたらこんな気持ちだろうかとか。子どもの寝顔を見ると疲れが飛ぶとか頑張れるとか、親になった人たちはよく口にするものだ。それはつまり、あどけない寝顔には、大人を奮い立たせる効力があるのかと。


(確かに、すべてをなげうってでも守りたいこの寝顔……)


 その気持ちに嘘はない。まごうことなき真実、本音。

 それは、好きな人ができたら、自分はこう考えるのかなと、かねてより思い描いてきた心情に紛れもなく一致する。正しい。間違いない。

 一方で、ジークハルトを今烈しい混乱の渦に突き落としているのは。


(…………泣き顔が可愛いと思ってしまった俺はどこかおかしいんじゃないだろうか)


 初めてエリスを見たときは、可愛いなという程度だった。

 不器用だったり、世間ずれしているところは記憶喪失だから仕方ないのかなと納得しようとした。国王だと知ってなお自分に対して物怖じしないのも好ましい性格だと思っていた。そういう冷静な観察のどこに、感情が高まる余地があったのか、自分でもよくわからない。


 好きだとか、愛おしいとか。


 肩の開いたドレスを着て困っていたときだろうか。

 魚を見たことないと言いながら、嬉しそうに食べていたときだろうか。

 お前になら何でもやるぞと軽口叩いたら、すげなく返されたときだろうか。

 二人で酒を飲んだら軽く一杯で無防備に寝てしまったときだろうか。


 いろんな場面が浮かぶものの、今となってはどの時点でも自分はすでにエリスを可愛いと思っていた気がするから、検証は不可だった。とはいえ、一番キた瞬間はまざまざと思い出せる。

 泣き顔。

 頬を赤らめて、涙の浮かんだ顔で見上げられたその時、それまでの価値観や積み上げてきたはずの自分への信頼が音を立てて崩れてしまった。


(好きなひとができたら、その笑顔を守りたいと思うのではないかと……。まさか、もっといじめて困らせて、泣かせてみたいだなんて……、俺は異常じゃないか)


 誓って言うなら、本気で追い詰めたいわけではない。泣かれたら辛いし、どうにか助けたいと思う。

 その一方で、恥ずかしがって抵抗されたいし、その抵抗を優しく押さえつけて怒られながら唇を奪いたいし、もっとひどく泣かせてみたい。

 睨むほどの力をこめられなくなった潤んだ瞳に見つめられたい。もちろんそんなエリスを他の誰にも見せたくないから、すごく限定的な嗜虐心だとは思う。思うけれど。


(俺は異常なのでは……)


 自分に絶望して壁に頭を打ち付けたくなる。

 まさか自分が、よりにもよって、好きな女の子を泣かせたいド変態だとは。


「いや……。前向きに考えよう。寝顔は普通に可愛いと思う。可愛い。エリス可愛い」


 もちろん、見つめていると、その可愛らしさに胸のあたりがじくじくと甘く痛みはじめるのだが、まだ大丈夫。大丈夫。エリス可愛い。

 ジークハルトは落ち着かなげに辺りをうろうろと歩き回った。

 そして、そろそろ持ち場に向かわねばと、ようやく気持ちを切り替えた。


 * * *


 王宮中の人間を、表門のすぐ内側の外郭に集める。


「次期国王の休暇に合わせて最小限連れてきただけなので、常駐の者を含めてもそれほどの人数はいない。非戦闘員三百名に、戦闘員二百名といったところかな」


 総勢五百名を収容できる部屋はないので、野外での待機とした。

 「血と鋼」本人や、その魔法を受けているであろうロアルドに対し、一般兵は遭遇しても勝ち目はない。非戦闘員は言わずもがな。無駄な接触と流血を避けるために、いっそ全員まとめて避難させてしまうという作戦だった。


「最悪の想定の一つですが、剣を持つ戦闘員が『血と鋼』の魔法を受けて暴徒化する恐れもありますね」


 というファリスの意見もあったが、戦闘員の武装解除は見送ることにした。

 念のため、戦闘員と非戦闘員は混ざらないように距離を置き、間にジークハルトが立つ。

 その想定で、人はもう集まっているはずだった。

 あとは、そこにエリスを連れていくだけだった。

 起きる気配はないから、抱きかかえて連れて行かねば。そう思い、ジークハルトはようやく寝台に向き直る。


 菫色の瞳が、見ていた。


 思いがけず、目覚めていたことに意表を突かれて固まるジークハルトをよそに、少女は寝台に上半身を起こしてまっすぐに見てきていた。


(どっちだ……?)


 魔導士に切り替わる瞬間は一度目にしている。顔つきや声の張りがまったく違った。だが、黙っていると同じ顔だけに、判別しづらいものがあった。

 小さな唇が開いた。


「ジークハルト……」

「自分の名前がこんなに好きだと思ったこと、これまでにない」


 可憐な声に名を呼ばれただけで身体が震えてしまい、ジークハルトはつい正直に気持ち悪いことを言ってしまった。

 少女はぼんやりとした様子で、言葉を紡ぐ。


「怖い夢を見た気がするの」

「それは、起こさないで悪かった。ここは現実で、夢は夢だから心配ない」


 ジークハルトは寝台に近づくと、思い切って少女のすぐそばに腰を下ろしてその菫色の瞳に自分を映しこんだ。


「うん……。怖かった。けどね」


 瞳を瞬かせて、不意に少女は甘い笑みを浮かべた。


「エンデさんが助けに来てくれたの」


(…………どういう表情をすればいいのかわからない)


 動揺してはいたが、口は滑らかに動いた。


「エンデは頼りになるからな。チャラいのかと思うと、あれでかなり誠実だ。決めるとこは決めてくる。あいつ、絶対酒を口にしないし。自分はいついかなる時も誰かを守る存在でありたいし、女性を口説くときにも酔った上での遊びだと思われたくないから、という理由らしいんだが」

「たしかに、エンデさん飲まないなとは思ってました……」


 少女は、何かを思い出したように軽く頷いた。


「そうそう。周りに気を配ってくつろがせるくせに、自分は気を抜かないっていうか。俺には真似できない」

「そうですか。ジークハルトもそういうところあると思いますけど」

「俺? どこが?」


 本気でわからず、つい聞き返してしまう。


(あいつなら好きな女の子泣かせたいだなんて思わないんだろうな。口では多少いじめても、二人きりになったら怖がらせないようにして、優しくする一択だろうな)


「ジークハルトだって……。すごく優しい」


(本当は泣かせたいと思ってるけど)


 やましいことがありすぎて、目を見ることができない。

 思わず顔を逸らしたら少女の手が追いかけてきて頬に触れた。指先の柔らかさに驚いて振り返ってしまう。


「エリス──」

「時間のようだ」


 答えたのは、おそらくエリスであってエリスではない存在。


「わたしの持ち場は決まっているのか」

「俺のそばに。非戦闘員を守ります。状況を見て、中庭に走ります。『時』の魔法には攻撃・殺傷系がないと聞きましたので、俺から離れないでください。立てますか」


 瞬間的にひりついた空気に答えるように、ジークハルトは速やかに言うと先に立ち上がり、手を差し伸べた。


耄碌もうろくしていると侮るなよ。身体は見た目通りだからな」


 少女の外見の魔導士は強がりを口にして、手を取らずに寝台から足をおろ。、ジークハルトが揃えたサンダルに足を通した。足元がふらついている。つい、手を出しそうになるが、機嫌を損ねそうなので堪えた。そのまま、二人で連れ立って歩き出す。


「全員、鋼は取り上げているのか」

「いいえ。兵士たちには、敵が襲来するが、勝ち目はないから丸腰でいろとは、言いませんでした。むしろこちらの兵に『血と鋼』が魔力を割いてくれるなら、対ロアルドや、魔導士同士の戦いが有利に運ぶのではないかと。向こうが利用する気なら、受けて立ちます」

「……何人相手にする気だ」

「二百人なら軽いですね。幸い俺の武器はこれなので、部下たちに怪我はさせても命まではとらないでしょう」


 ジークハルトが、自分が携えた木剣を示すと、時の魔導士は呆れたような笑いを浮かべて言った。


「なるほど。それが折れたら、わたしが何度でも直そう。存分に振るえ。鋼は手にするなよ」


 その笑みは力強く、ジークハルトは一瞬虚を突かれて見とれてしまったのだが。

 次の瞬間には、何もないところでつまずいて転びかけるという離れ業を披露されて、問答無用で抱き寄せた。


(エリスでも時の魔導士でも、結局危なっかしい)

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