第31話 臆病者の勇気

 珍しく動悸がしていた。

 気持ちがざわついている。

 冷静であれ、と。

 常に誰より冷静で、見落としも、見誤りもせずに生きよと自分に言い聞かせてきた。

 片目を失って視界が狭まってから、その思いはより強く。

 動じるな。呑まれるな。場を支配しろ。

 戦え、ただ勝つ為に。


 こんな風に気持ちが揺れ動いたのはいつ以来だろう。

 見上げた空には茜が差し、戦闘の開始を告げていた。


「不意打ちでも全然構わなかったんだけど」


 ゆっくりと歩いてきた銀髪の巨漢に対し、噴水の縁に腰かけていたエンデは明るく言った。

 動悸はゆるく、それでも確かに続いていた。トクトクと。

 そのせいだろうか、胸が痛い。締め付けられるように痛い。

 人を殺すのに、こんなに緊張するのは久しぶりじゃないだろうか。


(そうでもないか)


 怖いのは、怖かった。たぶん、ずっと怖かった。

 でも、他の誰かが怖がっているのを見るくらいなら、自分の方が気が楽だった。自分は人より少しだけ強いような気がしていた。実際、剣を持てば負けることは稀だった。強い人間が戦うのは、ごく自然だ。向いているのだから。 


「『血と鋼』による魔法は地上の理とは別の何かだ。人間には勝ち目がないぞ」


 瞳に赤みを帯びたロアルドが告げる。

 エンデは自分の右の目を右の人差し指で指し示して言った。


「オレもここに大魔導士の祝福を受けている。オレにはこれで十分だ」

「失ったものが戻っただけだ」


 ロアルドには感動のない声で言われたが、おそらく祝福は本当にある。「血と鋼」の魔法にエンデが巻き込まれることはなかった。エンデまで我を失ったら、さすがに被害は大きかったはずだ。


(感謝する、大魔導士)


「目が見えるって実際凄い。空や海はこんなにも綺麗なんだなって思い知った。それと、女の子の可愛さがよくわかる。幸せだ」


 軽口を叩きつつ、腰を上げる。

 言いたいことは、こんなことだっただろうか。最後はこれでいいのだろうか。剣を抜く。


「理由を聞いておくべきなのかな。理由がなんであれ、もう他に道はないんだけど。やっぱりその口から聞いておきたい。どうして王子を裏切ったのか。どうして『血と鋼』の味方をしたのか」


 「血と鋼」と騎士団長が手を組んで、休暇中のジークハルトに刃を向けた。

 おそらくこの一件はそういう処理をされる。

 しかし、ロアルドの動機がわからない。

 エンデの問いに対し、ロアルドは微塵も表情を変えず、答えなかった。


「『血と鋼』への同情か」


 エンデが、ひとり呟いた。

 近ければ近いほど、「血と鋼」の変遷を目の当たりにしている。

 道を外れはじめたのは確かだったが、彼を知る人間によって、殺すべきとの決断は先延ばしにされてきた。それが次の戦争を呼び込み、この世界に悲劇と荒廃を招くかもしれないと、その恐るべき可能性から目を背けてきたのだ。


 たまたま、アリエスと「時」が引導を渡しに来たが、海の国の中にも同じことを考えていた人間はいたはず。

 我が身を犠牲にしてでも、「血と鋼」を白日のもとへと引きずり出し、確実な罪状を持って息の根を止めようと。

 そうすることでしか、彼を止めることはできないと。

 ロアルドは、深く息を吐き出した。


「『血と鋼』は、私が物心をついたときからあの見た目で……。危うい、どこか安定を欠く少年のような性質もその頃から変わらない。聡明でありながら、魔導士に期待される思慮深さは足りていないように見えた。彼の正気をこの世界に繋ぎ止めたのは、まだ幼かったイリア様……。あの方が存命であったらと思わずにはいられない。そうすればジークハルト様の代でこのようなことは起きなかった。やがてファリスが魔導士として成長し、『血と鋼』の暴走を食い止めたはずだ」


「しかし国境線を巡る戦争にああいう幕引きをしたこと自体は、今後の陛下の治世において大いに意味がある。長い目で見れば、無駄な戦ではなかった」


 あり得なかった未来の話には触れずに、エンデは過去と現在の話をする。ロアルドはそれを否定することなく、静かな口調で語る。


「ただそれは、この先ジークハルト様が『血と鋼』の奴隷とならず、すぐれた統治を行う場合の話だ。『血と鋼』と陛下、どちらかが欲望に屈した場合はその限りではない。今のままではとても危うい。両者が同じ空の下に生きる限り、どちらも守りきれなくなる」


 二人に対する思い入れが深ければ深いほど。

 どちらも生きる未来を描けずに、どちらかを選ぶ決断を迫られる。


「他の方法があれば良かったんだけどな」


 吐息とともに、エンデは呟いた。

 ロアルドはゆるく首を振り、物憂い声で続けた。


「『血と鋼』をこの世界に誰も繋ぎ止められなかった。その時点で決まっていたことだ。それにしても魔導士というのは、皆ああもうつくしい生き物なのか、と思ったな。『時』も大魔導士も造形としては圧倒的にうつくしい。ただ、私にとっては、やはり『血と鋼』が。……助けたかった」

「助ければ良かったのに」


 エンデはどうしようもない苛立ちを弱くぶつけて、剣を構える。

 ロアルドが手を差し伸べて掌を空に向けた。不可視の何かを受け取るかのように。

 そしてエンデに目を向けた。瞳の赤さがいや増していた。


「この身と心のすべては捧げている。以降、私は二度と正気に戻ることはない。これが最後だ」


(苦しみすぎだろ。苦しみすぎ。だけど)


 殺したくない、殺せない。迷う人間は弱い。知っている。

 たとえ後から苦しむとしても、その時はただ血を啜るだけの鋼であれ。それが「血と鋼」の魔法。恐怖や苦しみや悲しみの無い世界にほんの一瞬連れていってくれる。

 その一瞬を永遠に固定したというのならば。

 後からでさえ、苦しむことをすべて放棄したというのか。


(負けるかも)


 心を残したままの自分は。

 胸が軋むように痛い。

 臆病な自分は。

 きっと躊躇う。


「それでも、オレはオレであることを選ぶ」


 心が砕けて壊れそうなくらい怖くても、痛みを紛らわせて罪から逃れようとは思わない。

 命尽きるまでその罪を負おう。


「あんたはオレがここで止めてやる」


 * * *


 剣で受け止めた一撃は鋭く、重かった。

 必殺の剣だ。

 狙ってくる。当たり前だ、血を求めている。


 続く斬撃も空気を両断してエンデに迫る。受けるだけで精一杯だ。

 エンデの身上である、隙をついて切り抜けるような戦い方ははじめから封じられていた。

 何度打ち合っても、まったく反撃が許されない。

 じりじりと追い詰められて、削られる。エンデは決して非力な方ではないが、体格差がいずれ決定的な要因になる。その予感は確信だった。長引かせれば不利。だが。


(勝ち目が見えねえ……っ)


 受け止め、打ち返すのが精一杯だった。それ以上次の一手が決まらない。


「……っ」


 手が痺れるほどの一撃に、エンデは奥歯を噛み締めた。


(負けるのは怖くない。ここで団長を食い止められず、他の誰かに相手をさせるのが怖い)


 ジークハルトなら負けないだろうが、それは木剣を捨て鋼の剣を持ったときだ。

 それだけは駄目だ。

 命をかけてもここで踏みとどまり、せめて戦闘不能に近い状態まで追い詰めなければ。 

 その思いで打ち合うが、魔法を帯びたロアルドの動きはエンデの予想を上回るほど早く。

 一瞬見失い、勘で剣を受け止めたが、あろうことかロアルドは片手をエンデの頭めがけて伸ばしてきた。握りつぶそうとするかのように。エンデが目をむく。


「僕もいます」


 炎をまとった剣がロアルドの首筋を狙い、めざましい早さでロアルドが身体をひいた。


「ファリス……」


 エンデは目に入りそうな汗を指でぬぐって、涼しい顔をした魔導士を軽く睨みつけた。


(『血と鋼』は)


 目での問いかけは、ファリスの視線の動かし方一つで答えがわかってしまう。


 ──大魔導士が引き受けたよ。


 ふっとエンデの肩から力が抜けた。気が抜けたせいだった。

 大魔導士がファリスと「血と鋼」が親子関係にあることを知らないのを良いことに、知らせぬまま組み合わせと配置を決めた。

 ファリスに、「血と鋼」と向き合わせることはジークハルトも最後まで悩んではいたが、もしロアルドと大魔導士が接触した場合、剣での守りが不可欠との判断だった。

 結果的に「血と鋼」もこちらの読みにある程度乗った形ではあったが、ファリスの位置づけに関してはエンデにも大きすぎる心労になっていた。


「お前がこっちでいいのか、正直わかんねーけどな」

「僕は、エンデに団長を殺させる方が嫌だった。一番仲が良いくせに」


 言葉にしなかった部分を汲んで、そんなことを言ってくるファリスからエンデは顔を逸らす。

 ロアルドがファリスに狙いを定めて切りかかると、ファリスが剣をもって空気を一閃し、炎の壁を作り出した。ものともせずに飛び込むロアルドの一撃はファリスが剣で受け止める。そこに、エンデが切りかかる。受けきれないと一度ロアルドが引く。


「出過ぎるな。死ぬぞ」


 ファリスがエンデの背負おうとしたものを横から奪い去ろうとしている。その気配を察して、エンデは釘を刺した。


「そっくり返します。たまには後衛でも良いのでは?」

「視界良好だからな。その必要はない」


 軽口を叩き合って、視線を交わす。


「二度と団長にかけられた魔法はとけない……」


 エンデの低い呟きに、ファリスが頷いた。


「そういうのは、たとえ魔導士が死んでもどうしようもないです。団長はずっと『血と鋼』と深い繋がりを望んでいた。命と不可分の領域で結びつきを求めて、叶えられたんでしょう」

「……そうか。それは良かった」


 それが本当に良かったのかどうかなんて、他人が判断すべきことではないと思いながらも、エンデは自然と口にしていた。

 いろんな思いがなすすべもなく死んでいった中で、叶った思いがひとつでもあったのなら。

 ともにロアルドを見据える。


「後悔は絶対にする。わかっていてもやるんだな」

「僕に任せていいのに」

「うるさい」


 二対一でわずかに見えた勝ち目に向かって、二人で剣を構えて、同時に動いた。

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