第18話 一触即発
「もう少し触れても大丈夫ですか」
ファリスはエリスの正面に立つと、軽く腰をかがめた。左手はエリスの髪を肩からそっと流しながら首の後のまわし、右手の指先で白い喉に軽く触れた。
「息はしていていいですよ。止めてますよね」
「はい。ちょっと緊張して」
「僕もです。片手で掴める細い首なんて、力の入れ方を間違えたら折ってしまいそうで」
「!?」
反射的に逃げようとしてしまったが、首の後ろを掴んだ左手に力が込められた。
「動かないで。本当に折れたらどうするんですか」
「何かわかりましたか」
ファリスは我慢できなかったようで唇を震わせて笑っていた。意地悪。
ムッとしたままエリスが言うと、ファリスは「あくまで推測ですが」と断りを入れた。
「試してみましょう」
言うや否や、右手をエリスの首にかけて、力を入れてくる。
(苦し)
と思ったのは、本当に一瞬だった。
青白い光が炸裂し、凄まじい雷鳴が轟いてファリスの手を撃った。
予期していたかのようにファリスは右の掌を返してそれを受け止める。競り合っているようで、迸る光に照らされた表情はひどく険しい。
やがて光は収束し、ファリスの手からは黒い煙と焦げた肉の匂いが立ち上った。
「ごめんなさい、エリス。苦しかったでしょう」
「それより、手が……っ」
ファリスは長衣の袖の中に手を隠してしまい、なんでもないように言った。
「大したことありません。今のではっきりしましたが、確かに何か、『エリスに危害を加えた奴絶対殺す』仕組みがありますね、そこに。エリス自身の力なのか、それとも誰か強い魔導士が関わっているのか……。僕が未熟な身なのでわかりませんし、現状では解除方法などもわかりません」
(お師匠さまです!!)
言えなかったエリスは無理に微笑んだが、ファリスはさっぱりとして晴れやかな調子で言った。
「演習をしても、それがある限り僕がエリスを傷つけることはないでしょう。返り討ちは十分ありえますが」
「出来れば返り討ちたくもないんですが」
「では、もう一つ試してみましょう」
ファリスは片腕でエリスの背を支え、もう片方の腕を膝裏に通して抱き上げる。
悪戯っぽく笑ったファリスの顔がとても近い。
黒髪がさらりと頬に触れて、唇を合わせられる直前だと気付き、エリスは「わああああ」と声を上げた。
ファリスはにっこりと微笑んだ。
「なるほど。命の危険には反応するようですが、害意がない場合はそうでもないのかな」
「害意って」
「陛下とそういうことになったときに、間違えて作動されても困りますから」
(そういうこと)
真っ白になったエリスを、ファリスはにこにことした笑顔のままいつまでも見ていた。いつまでも。
長衣を脱いだ姿は見たことあるし、兵士の体つきとは思っていたが、細身の割に腕の安定感も抜群。エリスは呆然としている間、しばらく抱きかかえられた状態にあった。
ファリスがおっとりとした口調で言った。
「下ろしてって言うまでこのままのつもりです。できれば可愛くお願いされてみたいです」
「邪悪なオッサンですね……!」
エリスが心を込めて言うと、ファリスはようやく解放する気になったらしい。
床に足を下ろしつつ、エリスは拳を軽くファリスの胸に打ち込んだ。
「本当に口づけされるかと思いました」
「……そう? 今からでもしてみる?」
悪意など欠片もないような笑顔を前に、エリスは冗談もたいがいにしてほしい、と溜息をつく。
一方のファリスは、顎に手をあてて、考えるそぶりをしつつ言った。
「解除方法が思いつかないのは困りましたね。本当に、『そういうこと』になっても発動しないんでしょうか。魔法攻撃に対しては陛下は無力だと思うので、その時は念のためその場に僕が立ち会うことになるのかな」
「おやめください」
ファリスはくつくつと喉を鳴らして、しばらく笑っていた。
* * *
喉に施された『余計なことを言えない呪い』が実際は『エリスに危害を加えた奴絶対殺す』を兼ねていたという事実。
(これ……。もしわたしが真面目に暗殺しようとしていたら、返り討ちにあっても、結局お師匠様の魔法が相手を滅殺したんじゃないのかな)
「エンデが夜に護衛につくと聞いているので、それまでは僕が護衛しますね」
ファリスの部屋を出て、肩を並べて廊下を歩いている間、ファリスはずーっと笑っている。
「ファリスさん、自分にウケないでください。わたしを守る必要がないことは、わたし自身よくわかりました。早めにジークハルトに進言しましょう」
「僕はこのままで良いと思います」
「皆さん無駄な仕事をなさってます」
頭痛を覚えてエリスはそう言った。
陽が落ちるにはまだ早く、さりとて気温は高くてけだるい時間帯だった。中庭は光に溢れていて、見るだけで著しく暑そうだった。
(ジークハルト……。お妃様候補と顔合わせ、どこでしているんだろう)
街で見かけた金髪の少女は、今思えばメオラの姫君であったかもしれない。そして、美貌の従者。
(美貌の、騒ぎが起きるくらい美貌の)
山深いメオラから単純な行程を冷静に考えれば、たった数日で姫君一行がアレーナスにたどりつけるとは思えない。
まさか大魔導士がすべてをひきつれて転移魔法というのも危険が高すぎるように思える。それだけがひっかかっているといえば、ひっかかっている。
隣を歩いていたファリスが立ち止まって少し遅れた。
気付いて振り返ると、淡い笑みを浮かべてエリスを見ていた。
「護衛の件も含めて、僕、実はいま、今まで生きてきた中で一番くらいに楽しいですよ。それきっと、僕だけじゃないです」
今までどんな人生を。
とは、言えなかった。
エリスは彼らの人生のほとんどを知らない。ほんの一部は知っている。心の深いところを破壊しつくしたであろう激しい戦闘を。もしかしたら、そこで彼らの人生は一度終わってしまっているのかもしれない。
自分の存在が、彼らにどれほどの影響を及ぼしているかなんて、自惚れはないけれど。
「楽しいことはこの先たくさんありますよ。無責任に保証しておきます」
人生は長いですよ、とは言えなかったけれど。
「ありがとう」
端正な容貌を優しく見せる形の良い唇に、品のある笑みを湛えて、ファリスがひそやかに言った。
* * *
「さて、陛下はどこでしょう。時間的に、会食は終わってるでしょう。中庭に出ることもありますけど、さすがにこの季節は嫌がるお相手も多いでしょう。暑いですし」
「春とは思えない暑さですよね」
山の国はあんなに寒かったのに。
エリスは何気なく口にしたが、ファリスが「春?」と呟いた。
「エリスの中では、今は春なんですか?」
「わたしの中では?」
思わず二人で顔を見合わせる。ファリスが確認するように言った。
「初夏といえないこともないけど、夏ですね」
「夏……」
エリスは目を見張ったが、別段ファリスにふざけた気配はない。むしろ慎重な様子で、ゆっくりと言った。
「もしかして、エリスが最後に記憶が途絶えたときが、春だったのではありませんか」
「春でした」
(
「エリス、陛下が最初に僕にした質問を覚えていますか。もしかして当たりだったのかも」
二人で向き合ったまま、次の一言を選びかねて見つめ合う。
その時、咳払いが耳に届いた。
「廊下の真ん中で二人、何かあったのか?」
珍しく、数人を引き連れたジークハルトがそこにいた。
服装は軽めだが、白のマントを身に着けていていつもより正装寄りだ。その隣には、豪奢な金の髪を結い上げた少女が寄り添うように立っている。
ジークハルトは物言いたげにエリスを見返してきた。
今にも「時間を作ろうか」と言い出しそうな気配があった。そのジークハルトの腕に、少女がしなだれかかるようにもたれかかった。
「どなたですか?」
甘えるような声。
こんな声の少女だっただろうか、とエリスはぼんやり思った。正直よくわからない。ただ、顔には覚えがあった。紺碧の青の瞳に、抜けるような白い肌の美少女。彼女は間違いなくメオラの姫君。
エリスは個人的に会話をしたことはない。
「宮廷魔導士だ」
ジークハルトはどうとでもとれる言葉で二人をまとめて紹介した。
「若そうに見えますけど。やっぱり、魔導士って見た目通りの年齢じゃないのかしら」
「そうでもないが」
姫君はファリスとエリスを交互に見て、エリスにより長く目を止めた。
「メオラにも偉大な魔導士がいたと思う。確か……」
「アリエスです。わたくしの従者と、偶然にも同じ名前なんですけど」
「従者ってあの、すごい美形の」
(同じ名前……、絶対にアリエス様ご本人ですよね!?)
多分おそらく絶対間違いなく本人が来ている。
何か理由があって魔導士ではないふりをし、従者に徹しているのだろう。それなら名前くらい変えればいいのに。どうしてその辺は融通がきかないのか。
「そうか。こちらの魔導士はまだ若いから、偉大な魔導士の薫陶を受ける機会があればと思ったのだが」
穏やかに言いつつ、ジークハルトはがっちりと腕を組んだ姫君の腕を、そっと外そうとする。外されまいとして、姫君はなおさら力を込めたようで、さらに胸を押し付けるように身体を摺り寄せた。ジークハルトの緑の瞳に宿る眼光が一瞬おそろしく剣呑なものになったが、一瞬だけだった。
「まあいい。後で報告を。今日は多めに時間を作る。かなり多めに」
エリスの目を見ながら言い終えて、ジークハルトは背筋を伸ばすついでに腕を今一度さりげなくゆすっていたが、姫君は頑として離さなかった。二人に続いて、数人の女官や文官が続き、一行はそのままその場を去った。
その後ろ姿を見送り、ファリスが一言ぽつりと言った。
「妬けました?」
ファリスの問いに罪はなかったが、主にアリエス関連で疲労を覚えていたエリスは、質問を解さぬまま答えた。
「ものすごく、気になっています」
「そっか」
会話は大きくすれ違っていたが、それを指摘する者はその場にいなかった。
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