第17話 僕は何の為に

 累々たる屍と、戦闘不能となって倒れ伏した者たちの中心。

 息を詰めて見入る多くの者の視線の先で。


 地に膝をつき、茫漠たる瞳で空を見上げたまま、動きを止めた一人の戦士。

 雲一つなく、鳥の一羽も飛ばないそこに、それほどの長きに渡って見るべきものなどないはずなのに。

 彼はただひたすらに、空を。

 彼の元に一人、歩み寄った青年が声をかける。


「もういいんです。終わりました。ジークハルト様が」


 声が聞こえていないのか。

 或いは彼の耳の中には、過ぎ去った戦場で聞いた悲鳴が、怒号が、嘆きが、嵐のように吹き荒れているのではないか。そして。

 凍り付いたかのような蒼天に抱かれて、彼の精神はそのまま多くの死者に引きずられて持ち去られてしまうのではないか。


「ジークハルト……!」


 青年は、背中から腕を回して、彼を抱きしめる。

 血と埃に塗れた頬に、涙を流しながら。 

 大丈夫ですよ、と繰り返し言い続けた。


 * * *


 仕事の進捗を確認しにきたロアルドは、決済書類にサインをして片づけるエンデを見て、「非番は帰れ」と問答無用で部屋から追い出した。

 さらに、明らかに元気を失っているエリスの姿を見ると「今日はもういい」と宣言をする。


「実はこの部屋には、昼間でもお化けが出ます」

「お化け?」

「怖いお化けなので、あなたのような若い女性が一人でいてはいけない」

「お化け?」


 真面目くさった顔で言ってくるロアルドの真意が掴めず、ついエリスは繰り返し問い返してしまった。

 しかし巨躯の騎士団長は微塵も動揺した様子もなく、重々しく頷いた。


「お化けです」 


(お化けですか……)


 エリスはこめかみを手でおさえる。

 義務感や使命感とは裏腹に、エリス自身仕事を続行するのは不可能と、薄々察してはいた。文字や数字を目で追いかけても上の空で、まったく身が入らず効率も悪い。


「では、今日はここまでにします」

「それが良い。一度に知り過ぎると疲れる」


(結局、お化けはわたしに仕事を終了させるための口実ですね)


 口元まで厳めしいのに、よくもお化けお化けなどと。エリスは声を出さずに、少しだけ笑った。


「何者かが王宮に入り込んでいるかもしれないので、あなたからは目を離さないように、と陛下からは言われている。エンデもそのつもりでここに来たのかと。食事は?」

「いただいてます、大丈夫です」

「では午後の予定だが」


 その時ノックの音がして、ロアルドが返事をすると、顔を見せたのはファリスであった。


「団長。エリスは忙しいですか」


 ロアルドは一拍おいて「いや。午後の予定はこれから組むところだった」と何も包み隠さずに言った。


「それでは、僕預りでいいですか」

「私は構わない」


 決定権を譲ってくれた気配を感じて、エリスは拳を握りしめて「行ってきます」と口にした。ファリスはエリスに視線を流し、目が合うと小さくうなずいてから背を向けた。


「それでは、僕についてきてください」


 * * *


 ファリスに案内されたのは、私室兼研究室といった体裁の一室。

 積まれた本やいくつも並んだ瓶といった光景、吊るされたたくさんの乾燥草花の乾いた匂いが、どことなく大魔導士の研究室を思わせた。


「演習を行うなら、浜辺にでも行こうかと考えています。その前に、少しお話をと思いまして」


 申し訳程度の小テーブルと椅子が二脚置かれていて、エリスはそこに座るようにすすめられた。

 しかしその後、お茶を淹れてから、やや長いことファリスは沈黙していた。

 エリスも黙ってお茶を飲んでいた。


「何から話せばいいのか。エリスは今日、何を見ましたか」

「今日は、書類に記された文字と数字です」


 さりげなく口にしたつもりだったが、心臓がぎゅっと痛んだ。


「戦争の?」


 伺うように、ファリスがひそやかに言った。


「はい。隠すものではないとのことでしたので」


(見ました。『紅蓮の業火』と呼ばれた、炎の魔法剣士のことも)


 ファリスはお茶のカップを置いて、浅く溜息をついた。


「あの時は、最終的に殿下がすべてを背負いました。強くて。強すぎて。まるで人ではないかのようでした。最後は、あのまま、天に連れ去られてしまうかと思いました」

「天に、というのは」

「僕にもよくわかりません。空を、見ていたので。何もないのに。ずうっと、空だけを」

「空ですか……」


 幻視した光景を思い、エリスはそっと目を閉じる。


(ジークハルトは、空に、何を見たんだろう……)


 あの幻視が真実かどうかはわからないが。確かに、血に塗れたジークハルトは空を見ていた。

 虚ろな瞳で。

 今一度あの場面に会えないかと心の中に沈み込んでいったとき、光彩を欠いたまなざしが胸に迫って来た。エリスの知るジークハルトとは全然違う。

 想像の中のジークハルトが空を見る。エリスはどこから見ている? ジークハルトを。

 虚ろな瞳が見える。

 エリスは彼を、


(この光景は?)


「エリス?」


 ファリスの声に、エリスははっと我に返った。その瞬間、手にしていたカップが傾ぐ。テーブル向こうから手を伸ばしたファリスがカップをおさえたので、取り落とすことはなかった。


「ごめんなさい。ぼーっとしたみたいです」

「いえいえ。僕も結構、そういうことあります」


 答えたファリスは、何か深く落ち込んでいる口調で訥々と言った。


「僕はもう少し、話がうまかったら良かった。この先、僕の中にはたくさんの思い出が積み重なっていくでしょう。そういうのを、せめて人に面白おかしく話せたらいいのに。長命の件ですが、魔導士として魔力が安定し、うまく体内で巡るようになると、老化の影響から逃れる魔導士が稀にいると言います。僕がそうかどうかは、あと五年十年しないと断言できないと思いますが……」

「今でも実感が、少しはあるんですか」


 エリスの問いに、ファリスは力無く微かに頷いた。


「僕と副団長のエンデは同じ年齢です。今は並んでみてもそれほど歴然とした差はないかもしれませんが、少なくともこの五年でエンデが変わったほどに、僕は変わらない。不老長寿を欲する人はいるでしょう。僕は……。たとえばあの戦場を共に駆けたジークハルトや、エンデや、団長が皆、僕より先に老いて逝ってしまうこと。百年先の孤独を考えてしまうんです。僕は何の為に生きるんだろうと」


(……お師匠様は、何の為に生きているんだろう)


 ファリスの話を聞くうちに、エリスの中にも冷え冷えとした隙間風が入り込む。

 アリエスは、王宮で冷遇されているわけではないが、決して権力をほしいままにしているわけではない。魔導士としてはすでに究め切って完成した感のある魔力を有している。いくつかの研究は進めているが、本当にそれはアリエスのやりたいことなんだろうか。


「僕は言うまでもなく凡人です。魔力も戦争向きに特化している。本来不老長寿には不向きなんです。だから考えています。僕はエリスから魔力を感じるんですが、気のせいなら良いと。あるとしても、うまく呼び起こさなければ、その魔力は眠りについたままあなたは年老いていくのではないか。エリスは、不老長寿を望んでいますか?」


(不老長寿……)


 アリエス自身はどう考えていたのだろう。いつも自信満々で強気だったアリエス。

 こんな風に悩んだ時期があったのだろうか。どうやって折り合いをつけたのか。ついているのか。

 エリスがファリスを見ると、青みがかったような黒瞳が、じっとエリスを見ていた。


「エリス。これは僕自身の考えですが、僕はこの先の百年が怖くて堪らない。生家と縁を切ったのは、年長者はともかく、弟妹や甥姪の死に僕自身が耐えられないと思ったからです。僕はそのくらい臆病な人間です。ですが、もしこの先誰かが……、たとえ寄り添えなくても、互いの存在を感じて生きていける人がいたら僕は狂わずに済むかもしれない。でも、その為に、陛下から、あなたを奪いたくないんです」


 ジークハルトが、わたしを好きだとは。

 その一言は今のエリスにはどうしても言えなかった。すべては可能性の話だった。


「エンデさんは、オッサン、て。ファリスさんを一括りにしていました。一緒に年を重ねているかのように」

「あいつのああいうところ……。遠まわし過ぎる励ましで正直すごくイラっとするんです」


 素のファリスのぼやきに、エリスは息を漏らして笑った。


「老化が止まっているというのは、ファリスさんの気のせいではないんですね? であればファリスさんは今から、全力で老化の研究をすればいいと思います」

「エリス。それは世間の需要とは真逆です。おかしいのは不老長寿を拒否している自分の方だと、僕自身よくわかっているんです」

「そんなの無視ですよ、無視。好きな研究を好きなだけすればいいじゃないですか」

「雇われの身の上に、ひどいこと言いますね」


 ファリスは頬を引きつらせて変な笑いを浮かべていた。

 やがて、椅子の背にどさりと寄りかかり、大げさに嘆いて言った。


「あーあ。めちゃめちゃカッコ悪い話したのに。結局エンデに持っていかれるの、ほんと腹が立つ」


 エンデ。

 先程から何度か名前で呼んでいるのが、それが「副団長」以前の本来の彼らの距離感なのかと。


「カッコ悪くないですよ。わたしもすごく考えてしまいました」


(わたしは、お師匠様と何を話していたんだろうか。家族がいないのも当たり前だと思っていて、きちんと聞いたこともなかった)


 それは、アリエス自身が決して気付かせないようにしていた気もする。

 誇り高き、最強の魔導士。


(知りたいです、お師匠様。今近くにいるんですか)


「ファリスさん。折り入ってわたしからもお話があります」


 エリスは手を伸ばし、ファリスの手首を掴んだ。

 不思議そうな顔をするファリスであったが、エリスはその指が、エリス自身の首にあたるように持ってくる。

 固く乾いた指先が、エリスの白い喉に触れた。


「わたしの魔力は、ここからではないですか。わたしを守り、あなたを傷つけたあの力は」

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