第3話 どうしようもないもの

 バスの走行音が響いている。斜め前の席のポケットに入れられたチラシ類が振動でぶつかり合い音を立てている。タタタタタタタタ……男は眠ることができず目を開けた。

 非常灯だろうか、緑とオレンジの灯りが通路を浮かび上がらせていた。

(なんだか、別世界に続いているみたいだ。)

その雰囲気に、男は静かに興奮した。

 誰かが立っていた。ほんの、瞬きしたまに、通路の先に人が現れた。対向車のヘッドライトが細く差し込み、赤が閃いた。それで、誰だか分かった。

 女。あの女が立っているのだった。

 ライトがすぐに通り過ぎ、通路にシルエットだけが残った。男は足先を擦り合わせた。無意識であった。

(そういえば、彼女が塗った爪はどうなっていたっけ…)

靴を脱ぎ靴下を剥くと、つま先が赤く光っていた。もう1㎜しか残っていない。

 何の疑いもなく女を待ち続けた日々、もしかしたら会えるかもしれないと疑い出した日々、きっと来ないだろうと思いつつも度々公園に向った日々、もう来ないだろうとのり弁をやめた夜、公園に敢えて行くのをやめた夜、もう会えないと諦め、長期休暇を実家で過ごすことにした夜、────彼女のいない日々が急に思い出された。

 (なぜ、ここに現れるんだ。君を捨てようと逃げている今、なんで…)

 男の中に残っている女は、このつま先の赤だけだった。もう、窓は消えつつある。朝焼けの終わりには、男の肉の色が広がっている。

 一瞬に見えた女の爪、眩しい赤だった。朝焼けというよりは、夕焼けの色。最後に会ったあの日に塗った色ではないことがわかった。

 女はただじっとそこに立っている。シルエットはどこを見ているのか分からないが、足先の赤を見られている気がして、男は爪を隠した。それから男は女と、隠したつま先を交互に見ていた。突然のことに、何も考えられなかったのである。

(久しぶりに会えて嬉しい。でも、どうして僕の前にまた現れたんだ。君が、捨てたんじゃないか。)

 男は女を責めつつも、恐怖を感じていた。女の言いつけを守らず、公園ものり弁もなかったことにして、ネイルを見ることも無く、自分の体を見てもEcstasyを感じない自分を、叱りに来たのだと確信していた。

(僕が、公園に行ってないこと、のり弁を食べていないこと、彼女は見ていないはずなのに知っている。筒抜けなんだ。彼女はすべてを知っている。知ったうえで、ただじっと、何も言わずに立っているのだ。)

 男の頭が、膝の上で祈る形の拳に乗った。

(ごめんなさい。)

 男は心の中でその言葉を繰り返していた。シルエットは動かない。

(ごめんなさい。言いつけを守らなくてごめんなさい。僕を叱りに来たんですね。ごめんなさい。何か言ってください。無言は、いやです。僕はどうすればいいですか。どうすればまた元のようにあなたのそばにいられますか。ごめんなさい。僕はあの時何か間違っていたのでしょうか。何か足りなかったのでしょうか。もう一度僕をそばにおいてください。ごめんなさい。今度はちゃんとします。毎晩21時に公園に行くし、君についていって、夜だけじゃなくてずっと君のそばにいる。そして、全部同じものを、同じ順番、同じ回数噛んで食べます。今度こそ完全な、君のなり損ないになってみせます。だから、また僕をそばにおいてくれ。お願いだ。ごめん。……)

 握りしめた拳が痛い。男は女に祈っていた。必死に許しを乞うていたのである。シルエットはオレンジと緑の灯りに照らされて、まるで神だった。表情は見えないが、20の赤が鮮やかに輝いている。

(僕の神だ……)

 そう思ったとたん、女は消え、通路だけが浮かび上がっていた。バスの走行音が戻ってきた。タタタタタタタタ……男は眠りについた。


 翌朝男が目を覚ますと、あと20分でバスは八戸に着くころだった。女のことを思い出し足先を見ると、爪はもう切らねばならない長さであった。


 バスを降りると、八戸は雨であった。コンビニに駆け込み、コンセントを借りる。それから男は爪切りをレジに置いた。

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