第2話 破綻。消える景色

 女が来なくなって10日がたった。足の爪で彼女の世界と繋がってから、男は最初の爪切りを迎えた。女が来ないのは不思議でもなかった。以前にも三週間顔を見ない時があったから。そのあいだ毎日21時、男はのり弁を持ちあの公園にいた。そして、今回もそうしていた。

 最近男は、毎週日曜の爪切りを隔週に変更していた。切るたびに彼女の景色が消えていく。男は爪に閉じ込めた彼女との繋がりが消滅するのを恐れていた。その一方で、爪切りという行為で女を拒否している。女を受け入れたい。否定したくない。そう思っても爪は伸び、男は景色を削る。連絡先を知らないのだから、来られない理由が分からなくても仕方がない。そう分かっていても、会えない焦燥感が、深爪気味に切らせる。ぱんっ、ぱんっ。彼女の景色が少しずつ切り離されて、ティッシュペーパーに散乱する。丸めたそれを、ごみ箱に投げ入れた。絶たれた景色は元に戻らない。


 彼女が来なくなって2か月がたった。彼女の世界は3分の1ほど消えて、グラデーションは赤と桃色の2色になっていた。季節が真夏になり、男はサンダルを履きたかったが我慢した。彼女との繋がりを他人に見せたくなかった。独占欲である。相変わらずのり弁生活は続いていたが、公園に行く日は少なくなっていた。暑くてできれば外に出たくない。女のためならと待っていてもやはり会えない。風も、体温を奪ってはくれない。女を疑い出した自分に気がついた。かえるが鳴いていた。

(君は、僕を捨てたんだろうか。いや、最後に合った日、わざわざこんな景色をくれたんだ。しかも、消える前に覚えろと言った。絶対また会える。いやしかし、何かあったことは間違いないだろう。ああ、どうして連絡先を知らないのだろう。こんなにも君を求めていて、もしかしたら君も僕を求めているかもしれないのに、僕は君を見つけることができない。10もの窓で君の景色と繋がっているのに、そっちへいけない。)

 連絡先を交換しなかったのは、男の変態性のせいだった。今回のような、会えない日が何十日も続いたとき、連絡のつかない、そもそも連絡のつきようがないシチュエーションを想像して、Ecstasyを感じてしまったのである。不在の切なさに愛を感じた、男の自業自得である。

 女に会えない日々で、男は自分の無知を知る。彼女のことをほとんど知らない。名前は、分かる。好物も。でも、それだけだった。誕生日とか、年齢、出身、家族構成、苦手なもの、日中何をしているか、何もわからない。二人は、公園に21時という約束しか共有していなかった。いつも会うのは夜中だから、どこかに出かけたこともない。あの公園で待ち合わせて、コンビニに寄ることはあったが、たいていは真っ直ぐ男の部屋へ向かうのだった。

(もう、会えないのかもしれないな。)

 外装フィルムをはがしてから30分は過ぎたけれど、弁当はまだ3分の1ほどしか減っていない。動画はとっくに終わっていて、暗い画面に男の手が映っていた。


 え~っとお、いっつも待っててくれるところ、あと部屋がきれいなところ、それからクマのぬいぐるみをくれたことも好き。あたしが何気なくぽろっと言ったことを覚えてくれてるのほんとすごいと思う。あの、あれ、前にさ、猫飼いたいなあって言った何日か後に、本物はうちペット禁止だから無理だからこれで我慢してくれって猫ロボットプレゼントされたときはびっくりしたなあ。え?迷惑だなんて思わなかったよ!なんか、ここまでしてくれるのにわたしは何もしてないなって申し訳なく思ったけど、それ以上に嬉しかったよ!……会って、一緒に過ごせればいいなんて、あんまり甘やかしちゃだめだよ笑。え?あの猫あるの?やだ見たい。これ食べ終わったら出してちょうだいね。でもほんと、こんなに尽くしてもらってあたし、幸せだなあ。ありがとね。………


(君が動画で話してくれたこと、僕はもう見なくても脳内再生できる。いっぱい褒めてくれたけれど、あの気持ちは全部、嘘だったのかな。)

 腹はすいていたが、もうのり弁は正直飽きてしまった。食べる時間も噛む回数も守れなかったこれは、もう彼女のなり損ないにもならない、ただの賞味期限間近の弁当にしか思えなかった。男は深く息を吐くと、上着を着て、弁当を捨て、外に出た。そんなはずはないのに、外の空気は塩素の匂いがして、何だか切なくなった。

 N町の静止画をいくつか潜り抜け川を越えて、男が消えたのは牛丼屋の絵の中だった。5か月ぶりの外食である。注文をするときに女の顔が頭をかすめたが、考えないようにした。

 数分後、運ばれてきた牛丼を前に、腹の虫が鳴った。口内で唾液が湧き出るのが分かった。ぱくり。あまりのおいしさに、男は夢中になって食べた。噛む回数なんて、考えない。流し込むようにどんぶりをカラにした。セットの味噌汁を口にした時、郷愁が男を襲った。実家に帰りたい。たかがチェーン店の、セットの味噌汁に心臓を切なくさせられる自分が可笑しかった。

(そうだ、もう、あのアパートは引き払って、引っ越そう。久しぶりに、実家に帰ろう。)

 毎晩の約束のため、何か月も帰省していなかった。男はスマートフォンを取り出し、はじめて夜行バスを予約した。いつもは新幹線を使う。のり弁生活のせいで金がないのだった。

 勘定を終え、男が静止画の中に現れる。2、3の静止画を抜けた男は、一番大きな静止画で立ち止まった。柵の向こうにある川を見ている。黒い。それも、アクリル絵の具を何重にも塗り重ねたような、獣の分厚い毛皮のような、空気が入りこむ隙間さえないような密度の黒さだ。堅さを感じる水を、じっと見ていた。ぽちゃり。魚が水面でひるがえった。男の眉間にしわが寄る。彼はその魚を見ていたのだった。川底に消える前、魚は顔を出しじっと男のほうを見ていた。酸素を求めてぱくぱくと口を動かしていた。そんなはずはないのに、男には魚の口が意味のある動きに見えた。

(…「見るたびにわたしを思い出す」…「なり損ないにもならずに消える」)

ボチャン。魚がひるがえり見えなくなる。男が石を投げ込んだのだった。それから暫く川面を眺めていたが、魚が再び現れることはなかった。男はまた静止画の中を移動しだした。

 八月九日、男は帰省のため高速バスに乗った。3列独立シート、シリウス号である。最後列だけ4シートで、男の席は右から2つ目だった。座ると、目の前は通路だった。

「本日は、十和田観光電鉄シリウス号にご乗車いただきありがとうございます。このあと、バスが発車しますと車内、消灯いたします。読書などされる場合は、お手元の読書灯をお使いください。それでは、出発いたします。」

エンジン音がして、バスが動き出す。車内灯が、消える。

座席ごとにカーテンが張られる。斜め前の囲いからブルーライトが漏れている。

明日は7時に着く。18%。シリウス号にはコンセントがないから、充電のできる場所を探す必要がある。電源を落とす。男は本を読もうとしたが、最後列には読書灯がないようだった。本を閉じ、眠ることにした。

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