愛を!

坂本 ゆうこ

第1話 Ecstasyなのり弁当、そしてマニキュア

 N町の横には大きな川が流れている。22時50分。全てが黒に沈み、川岸もおぼろげだ。囲むように立つ外灯が、公園の静止画を浮かび上がらせている。静止画の中に、男が一人。半袖短パンにスニーカー。隣のブランコに置かれたビニール袋には弁当が入っているのだろうが、この寒さでは冷えてしまっただろう。彼は、二時間と少し前からここにいた。

人を待っているのだった。待ち合わせは21時。

(この寒さじゃ、時間通りに来ても温め直す必要があった。上着を持ってこなかった。)

風が、じるじる体温を奪っていく。連絡はない。お互いに連絡先を知らないのだから、連絡があるはずはないのだ。21時にこの公園、それだけを約束しているのである。

(今日はもう来ないのかもしれない。)

ビニール袋をつかみ男が腰をうかすと、ブランコと尻のあいだの空気が冷風に攫われていった。

(毎日会えるわけじゃない。僕だって、来られない日があるのだから)

静止画から男が出て行く。待ち合わせ相手は女であった。21時の約束は、今日限りのものではない。女と出会った日から続く約束である。女は気まぐれで、四日連続で現れたり、二週間現れなかったりする。最後に彼女に会ったのは三日前である。

 夜のN町には、たくさんの静止画が点在している。いくつかの静止画をぬけて、先ほどよりもずいぶん小さな静止画で男は足を止めた。

(鍵……)

 キーホルダーがポケットの内側に引っかかりなかなか取り出せない。熊のでかいキーホルダーは飾りであることを全力で拒否している。これは男が女にあげたプレゼントのひとつだった。女は、「見るたびに私を思い出すでしょ」と、男が持つことを望んだのだ。邪魔だが、彼女のいじらしさだと思うと悪い気はしない。鍵を取り出したが、それに移った体温も冷風は攫って行く。

 かりん。扉を開けると室内からぬるい空気が男を通り抜け、流れ出た。その熱も、冷風が攫って行く。

(足裏が暖かい。だいぶ冷えたな。)

男は靴を脱ぎスイッチを押す。部屋が浮かび上がり、黒い波が引いていった。手を洗い冷蔵庫を開けると、そこには三日分ののり弁が鎮座している。男が持つビニール袋の中身も、のり弁であった。

(さすがに食べなきゃな…)

一番奥、三日前のものを引き出し、電子レンジを開く。黒い波がさらに引いていく。

ブー・・・ン。男は回るのり弁をみている。

(賞味期限が近いから、まだ夕飯を食べてないから、僕は、これを食べるべきだ。)

(誰だって、弁当が賞味期限間近なら消費するさ)

男は言い訳を重ねる。それは、並々ならぬ思いを隠すためであった。

 男は女を愛している。それも丸ごとである。そう思っていることを誇っている。彼にかかれば「賞味期限切れののり弁」も、「彼女が三日前に食べていたかもしれないもの」になるのだ。思考回路が、変態なのである。

彼の思いはこうである。


 なんだか彼女の体の一部になるはずだったものを食べるなんて、彼女になり損なったものを食べるなんて、まるで僕が彼女のなり損ないになっていくみたいじゃないか。最高に興奮する。最強の快楽だ。Ecstasyだ。僕は、この時間が好きだ。彼女のなり損ないになる、大切な儀式。もしかしたら、彼女が想像しているかもしれない。彼女になれなかったものを体内に入れる僕のことを。(「だって、見るたびに私を思い出すでしょ…」)。朝、顔を洗うとき、Suicaをタッチする時、ご飯を食べるとき、ノートをとる時、いつでも。今や僕は、自分の体が視界に入るだけで彼女を思い出す。Ecstasyだ。


 この通り、変態なのである。男は女の言葉、「だって、見るたびにわたしを思い出すでしょ」、に縛られている。無意識の鎖である。いや、鎖と言うよりは、ウイルスである。彼女になり損なったものが、服の下に隠された皮膚、の、さらに奥、内臓、血液、細胞の一つひとつに染みついている。男は自分の体がそれで構成されることを望んでいるのである。

 男の変態性は今に始まったことではない。はじめは彼女が好きだと言ったのり弁を、会うたびに食べさせるだけで満足していた。いつのまにかそれだけでは満足できなくなった男は次のステップに進むことにして、女に協力を仰いだ。

「君の食べているところを撮影させてくれないか。」

「あなたがいなくて淋しい時、これがあれば僕は君を思い出せる。」

はじめは怪しんでいた女も、男の言葉に納得し、了承した。彼女を思い出すためではない。女自身になりたいと思ったのだった。そのためには、彼女の食事動画は必要不可欠。

撮影中、女は男のいいところをたくさん話していた。

(僕が後で何度も見るから、自分の良い印象が染み込むように頑張っている。ああ、なんていじらしいんだ。そんなことしなくたって、僕は君から離れられそうにないのに)

男は、彼女の食べ方、詳しく言うと食べる順番、噛む回数、その一つひとつの動作にかかる時間を完全にコピーすることに成功した。

(これで、君になれる。)

本来の目的を達成した後も、男は動画を再生する。今日も、パソコンを立ち上げ、温めた弁当の向こうで再生した。イヤホンをしている。彼女の声が頭に響いて、二人きりで食事している感覚が男を襲う。男の言う、Ecstasyの時間は、20分もかからず終わりを迎えた。

カラの弁当を捨てた男は、ベッドに寄りかかり靴下を脱いだ。足の爪が、赤い。

(そういえば、彼女が塗ってくれたんだった。彼女とおそろい。)


三日前の夜、男の部屋に来た女はマニキュアを塗り始めた。シンナーの匂いがきつくて、男は窓を開けていた。もれた明かりが、N町の黒にほんのりと静止画を作り出していた。

「こっちにきて、座って」

自分の爪をすっかり塗りおえた女は男をそばに寄せた。

「そう、それで、足先をわたしのほうに」

男は、楽に折り曲げた足を女にむけた。女が男の足をつかむ。太ももに乗せる。

「その赤、一色じゃなかったんだ」

女の指先は、よく見るとグラデーションになっていた。根元は少し桃色がかかり、先端に向って徐々に紫が差す。

「これは、わたしの見ている朝焼け。今、あなたの足の爪に塗ってあげる。ちゃんと、見るたびに私を思い出してね。」

男の顔に朱が差す。興奮しているのだった。Ecstasyである。

「動いちゃだめよ」

女も男も、塗っているあいだ無言であった。窓から、車やトラックの走行音が浸入してきた。男の生活はすでに女でいっぱいだった。自分の体の一部が目に入るだけで女を思い浮かべてしまうのだ。しかも、夜ごはんはのり弁に固定されている。食べ方も。女に会うまでは自炊していたというのに。これ以上、女が男の生活に増殖する必要は無い、というか、男の心は女を中心に回っているのだ。

(君には、それだけでは足りないのだな。なんていじらしいんだろう。足の爪なんて、ほとんど見ないのに。友人に見られないようにという配慮か、優しいな)

 チリチリン。自転車が横切っていった。ぞるぞると葉がこすれる音がして、室内をぬるい風が抜けていった。

 彼女はマニキュアを巾着袋にしまうと僕の足をラグの上におろした。自分の足をくずして二人のつま先を合わせ、微笑んだ。

「ね、おそろい。足の爪って伸びるの遅いじゃん。今までわたしが繋がってるって思うものなかったからさ、同じ色になって嬉しい。ネイルだしいつかはなくなるから、消える前にわたしの朝焼けの色覚えてね」

「うん。そうするよ、ありがとう」

今まで自分側にしかお互いの繋がりを感じる材料がなかったことに初めて思い至った男は、女を愛しいと思った。

(彼女の景色が10個、足先にある。)

 女の朝焼けは男の見ている朝焼けよりずっと鮮やかで、美しかった。この景色に行きたい。彼女の世界に飛び込みたい。そう思いながらも、男は爪を特別見たりはしなかった。気づいたらある、そういう風が、小窓たちの味わい方として正しいように感じたのだ。

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