4-5
8月22日(Sat)午後9時
浅丘美月は木村隼人と共に大田区の彼の自宅に帰宅した。今日は隼人の高校時代の友人の家を訪ねて友人宅で夕食をご馳走になった。
楽しい時間を過ごしながらも先日の松田との一件で美月の心中は穏やかではない。
(今日こそ隼人と向き合わなくちゃ……隼人に本当のことを聞かなくちゃ)
帰宅してすぐに隼人は浴室に向かった。シャワーの水音が聞こえてくる。
美月は何度も溜息をついてソファーに横になった。
松田との一件を話して隼人がどんな反応をするのか、隼人と寺沢莉央の真実を聞いた時の自分の気持ちがどうなるのか、考えるだけでも怖い。
でもこのままではダメだ。
やがて首にタオルをかけた隼人が現れる。彼は冷蔵庫から缶ビールを取り出して美月の横に腰かけた。
隼人の髪はまだ濡れていて、シャンプーのシトラスの香りがした。
『美月どうした? 風呂入ってくるかと思ったのに。気分悪いのか?』
「ううん。大丈夫」
隼人の前で作り笑いをするのは今日が最後。これ以上、隼人も自分も、自ら身を引いた松田も傷付けてはいけない。
この前の20歳の誕生日に隼人からプレゼントされたムーンストーンの指輪は今も美月の左手薬指で月の光を宿している。
「あのね……話があるの」
『話?』
美月はムーンストーンの指輪に触れた。息を吸って、吐いて、彼の顔を見た。
「私……浮気した。ごめんなさい……」
ビールを飲んでいた隼人は唖然としている。
『……どういうことだ?』
隼人の動揺の声も当然だろう。頭を下げた美月は隼人の顔を見るのが怖くて顔を伏せたまま口を開いた。
「サークルの先輩に告白されて……。告白は断ったんだよ。だけどこの前、泊まりのサークルイベントの時に……」
『抱かれたのか?』
ビールの缶が静かにテーブルに置かれた。顔を上げた美月は乱れた髪を耳にかけ、隼人を見据える。
「信じてもらえないかもしれないけど、最後まではしてない。だけど……」
『けど、少しはそういうことをしたってことか。なんでそんなことになってんだよ』
額に手を当てて溜息をつく隼人を見ていると、何故か無性に苛ついた。なんでそんなことになってる? それはこちらのセリフだ。
「最近、隼人の気持ちが私に向いていない気がして……不安だった」
『は? 俺のせいかよ』
「……そうだよ」
『浮気した次は開き直りか。……俺も偉そうに言えたものじゃねぇけど』
隼人の言葉のひとつひとつが心に深く刺さって痛い。だけど自分の馬鹿な行いを隠して、隼人の本当の気持ちを確かめないまま、隼人の側で笑うことなど美月にはできない。
浅丘美月とはそういう人間だ。
「リオって人のことどう思ってるの?」
莉央の名を出すとポーカーフェイスな隼人の顔に狼狽の色が見えた。
『どうして今、寺沢莉央の名前が出てくるんだよ?』
「私が静岡に行く前と、隼人が刺されて意識を取り戻してからとで、隼人の私への態度が変わってた。私の目を見なくなってた」
『別に……そんなことない』
「今だってそう。どうして私から目をそらすの? いつも堂々としてる隼人らしくないよ」
美月の勘の鋭さと正直さは時として諸刃の刃となる。彼女はいつでも真っ直ぐだ。
その真っ直ぐな瞳を佐藤瞬と木村隼人と松田宏文は愛した。
彼女の瞳の前では誰も嘘はつけない。
「私がしたことはいけないことだよ。馬鹿なことしたって思ってるし、隼人も、サークルの先輩も傷付けた。だけど……私を不安にさせてるのは隼人のその態度なんだよ。隼人は時々、私以外の誰かを見てる。そんな感じがするの。それってリオって人のこと考えているんじゃないの?」
次第に流れる涙が固く握り締めた美月の手の甲に落ちる。隼人はソファーを離れ、窓際に寄りかかった。
『もし仮に、俺が寺沢莉央のことを考えてるとしても……じゃあ美月はどうなんだよ? 俺が何も気付いていないとでも思ってるのか? お前だって俺といる時に佐藤のこと思い出してるだろ? そんなの見てりゃわかるんだよ』
隼人の口調に普段の優しさはない。鋭利な言葉の刃が美月の心を切り刻む。
「隼人は私が佐藤さんをまだ好きなことを知ってる。私も知りたいの。隼人は……リオさんが好きなの?」
緊張の沈黙の後に隼人が重たい口を開いた。
『好きだよ。俺は寺沢莉央に惚れてる』
心が砕ける音がした。痛くて苦しくて切なくて、好きなのに、こんなに好きなのに。
隼人の答えを聞いた美月が泣きながら玄関を飛び出した。玄関の扉が閉まると同時に隼人はその場にうずくまる。
『相変わらずとことん真っ直ぐぶつかる奴だよな……』
明らかに悪いのは自分だ。言うつもりもなかった佐藤のことまで持ち出して美月を傷付けた。
これで美月と別れることになっても仕方ない……いや、美月を手離したくない。
隼人は玄関を飛び出した。ホールのエレベーターは作動しておらず、階段の方から足音が響いていた。
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