3-10

8月17日(Mon)


 真紀は自宅のキッチンの前で唸り声を出して立ち尽くした。先程から冷蔵庫を開けたり閉めたりを繰り返している。


(何か作った方がいい? でもそれじゃあ如何いかにもあなたを待ってました、って思われるだろうし……)


 時間を確認するとちょうど午後6時、約束の時間だ。呼び鈴が鳴ると真紀の肩がビクッと震える。

オートロックを解除し、開けた扉の先にいたのは矢野一輝だった。今日の矢野はトレードマークの柄シャツを着ていなかった。


 昨夜、急に矢野から連絡があった。話があるから会いたいと言う矢野に、事件さえ起きなければ17日が休みの予定だと伝え、彼の来訪を承諾した。

矢野が真紀の自宅に入るのは今日が初めてになる。


『お邪魔しまーす』


緊張しているのか、いつもの彼よりも表情は固い。彼は真紀の部屋を見渡して感嘆した。


『うん、真紀ちゃんの部屋、俺のイメージ通り』

「どんなイメージよ」

『あまり女の子っぽいものはなさそうなのに、所々女の子らしいとこ。真紀ちゃんっぽい』


矢野が指差した物は白いソファーの上に置かれたレースのついた水色のクッション。真紀の好きな色は白と水色だ。


「ばか……」


 矢野に対して口癖となっている憎まれ口も今日は気恥ずかしい。矢野の味には遠く及ばないが、真紀は二人分のコーヒーを作った。

白いソファーに並んで座って、コーヒーを飲む。


『そのピアス、俺がホワイトデーにあげたやつ?』

「……うん。なんとなく…つけてみた」


 ボブヘアの隙間から見える一粒ダイヤのピアスに真紀は触れる。今年のホワイトデーに矢野から貰ったこのピアスをつけたのも今日が初めてだ。


『似合ってる。可愛い』


彼のたった一言で身体中が熱くなる。こんな風に矢野の言葉に照れたり恥ずかしくなったりしたのはいつ頃からか、思い出せない。


 真紀の作ったコーヒーを飲む矢野の口元にはまだ先週襲撃された痕跡が残っている。


「傷、大丈夫?」

『平気平気。あのさ……この前はごめんね。心配してくれたのに関係ないとか言って……』


コーヒーカップをテーブルに置いた矢野は真紀に頭を下げた。


「いいよ。早河さんに聞いたよ。あの時はまだ追われていたんだよね」

『あー……うん。まぁ……』


矢野はバツが悪そうに口ごもる。饒舌な矢野がここまでしどろもどろになるのも珍しい。


「話ってそのこと?」

『いや……それだけじゃなくて、俺……真紀ちゃんに会うのもう止めようと思う』

「……え?」

『俺はこの前みたいなこと頻繁にあるし、そのたびに真紀ちゃんに心配かけて泣かせるの嫌なんだ。真紀ちゃんは刑事だけど、俺のとばっちり受けて危ない目には遭ってほしくない』


突然の絶縁宣言に真紀は言葉を失った。


『真紀ちゃんもいい加減、俺にうろちょろされるのは迷惑だろ? 情報なら上野さんを通して伝えられるから、俺はもう真紀ちゃんには近付かない方がいいんじゃないかって……』

「ちょっと待ってよ!」


 思いの外、大きな声が出ていた。矢野が目を見開いて驚いている。


「勝手に決めつけて勝手に話進めないでよ……」

『……真紀ちゃん? えっと……落ち着いて……?』

「落ち着いていられるかバカ! とばっちり受けて危ない目に遭わせたくない? 馬鹿にしないでよ。私は刑事よ。自分の身くらい自分で守れるの、舐めないで!」

『や、うん、それはもちろんわかってる……』


怒りの形相で声を荒くする真紀に矢野は慌てふためいた。


「それで私とはもう会わないなんて……そんなこと……言わないでよ……」


途中から涙声になり、真紀の瞳から溢れた涙を見た矢野も表情を一変させる。


「勝手に私の心にズカズカ入ってきて掻き乱して……今度は勝手にいなくならないでよね……」

『それってもしかして告白?』

「……そうよ! だから責任……とりなさいよ……」

『どんな責任?』


 矢野の手が真紀の髪をすく。その手つきもいつの間にか心地よく感じていた。


「矢野くんのことをこんなに好きにさせた責任」

『わかった。一生かけて責任とるから。だから許して? ……真紀』


 優しいキスも耳元で囁かれる声も

 髪を撫でる手も抱き締めてくれる腕も

 全部、好き。大好き。


 ――強がりの鎧、脱いでもいいかな? この人の前では弱虫で泣き虫の甘えん坊でいてもいいかな?

貴方あなたの前では本当の私をさらけ出してもいいですか……?


        *


 翌朝。矢野の腕の中で幸せな目覚めを迎えた真紀は、覚醒した頭で時計を見て驚愕した。……寝坊した。


「なんでもっと早くに起こしてくれなかったのよ!」

『何度も起こしたのに起きなかっただろー』


大慌てで支度をする真紀を尻目に矢野は悠々とコーヒーを飲んで寛いでいる。


「昨日イチャイチャしまくったから寝坊も仕方ないな? 真紀、めちゃくちゃ可愛かったなぁ。一緒に入った風呂の中でも……』

「あー! それ以上言うな! バカ! 変態! ハゲ!」

『ハゲてはないけどバカの変態で結構ですよー。あ、でもよかった』

「何が?」


 矢野が立ち上がり、真紀のシャツの襟元に触れる。


『キスマーク。一応、服で見えないところに計算してつけたけど俺の計算通り。さすが俺』

「計算したのかよっ!」

『計算しましたよ? 真紀は俺のものだからね。俺しか見ちゃいけないところにもたっぷり俺の痕跡つけておいた』


 にやりと不敵に微笑む矢野が憎らしくも愛しい。

昨夜の情事を思い出すと顔が火照る。ベッドで愛され、風呂場でも愛され、いつまでも肌を重ね合わせていた。確かにこれでは寝坊するに決まっている。

悔しいけどこの男にベタ惚れになってしまった。


「一輝だって私のものだからね」

『ん。俺は一生、真紀のもの』


 真紀の左手を持ち上げた矢野はまだ何も付けられていない薬指にキスをした。


「うわっ……キザー!」


真紀は笑って矢野に抱き付き、今度は彼女が彼に永遠の誓いのキスをした。



episode3.蝉時雨 END

→episode4.乱反射 に続く

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る