3-9

8月13日(Thu)


 今日は先輩刑事の香道秋彦の命日だ。早河が貴嶋と対峙して、貴嶋の弾丸から早河を庇った香道が殉職してから丸2年になった。


午後になって真紀は早河探偵事務所に立ち寄った。事務所に矢野がいるか気になったが、幸いにも矢野もなぎさも不在で事務所には早河だけがいた。

なぎさは兄の命日で実家に帰っていると聞いた。


「あの、矢野くんの具合は……?」


 負傷した矢野と出くわしたのは一昨日の夜だ。


『あれから病院に連れて行って精密検査受けさせた。特に異常なし』


早河の雰囲気がいつもと違うのは先輩刑事の命日で感傷的になっているからかもしれない。真紀も今日は2年前の出来事を思い出して溜息ばかりついている。


『あいつが心配なら俺に聞かなくても矢野に連絡すればいいじゃねぇか』

「そうなんですけど……気まずくて」


 矢野に関係ないと言われた言葉に傷付いている自分に戸惑う。いつもはこちらが彼を拒絶していたのに彼から拒絶されたのは初めてだ。

勝手なもので、矢野が自分を拒絶することはないと思い込んでいた。矢野の好意に思い上がって自惚れていた自分が恥ずかしい。


『矢野がどうして小山を遠ざけたかわかるか?』

「世話を焼く私が鬱陶しかったんじゃないでしょうか」

『逆だよ。あの時、矢野はまだ追われていたんだ。矢野を襲った奴らが近くにいた。あいつはお前を巻き込みたくなかったんだよ』

「巻き込みたくないって……それならそう言ってくれれば……いいのに」


口元を尖らせて拗ねる真紀は早河が淹れたコーヒーを飲んだ。早河が淹れるコーヒーはもちろん美味しいが、矢野のコーヒーが恋しかった。


『それを言わないのが男ってものだ。好きな女の前ではどうしても格好つけちまうものだよ』

「へぇ。早河さんもなぎさちゃんに対してはそうなんですか?」

『ん? どうしてなぎさが出てくるんだ?』


 早河はとぼけているようでもなく、本気でわからないと言った様子だ。なぎさの早河への気持ちは見れば明らか、早河だってなぎさのことを大切にしているのは見ていればよくわかる。

この男は他人の事情には勘が働くくせに、自分の事情には鈍感だ。


「なぎさちゃんには上司として格好つけているのかなって思っただけで……」

『それはあるかもな。俺が言うことでもないが、小山には矢野は合ってると思うぞ』

「それは相性がいいと?」

『さぁな。でも矢野といても嫌じゃないだろ?』

「……はい」


それは認めるしかない。嫌な相手なら、わざわざ休日の時間を使って二人で会ったりもしない。


「自分の気持ちがわからないんです」

『矢野のことが好きかわからないってことか?』


頷いた真紀を見て、早河は声を押し殺して笑った。


「もうっ! 笑わないでくださいよ」

『悪い悪い。そうやって悩む時点で矢野のこと意識してるよな?』

「でもそれが悔しくて……」

『それでもいいじゃねぇか。強がらず素直になれよ』


 まだ早河は笑っている。早河は刑事を辞めてからよく笑うようになった。

刑事時代は感情を表には出さないポーカーフェイスでクールな人間だと思っていた。刑事を辞めてから……なぎさがここで働き始めてから、変化が乏しかった早河の表情も豊かになった。

当の早河となぎさはきっとその変化にも気付いていない。外側から見ることでしか気付かない事象もあるのだ。


「だけど私は警察官です。刑事と情報屋がその……恋愛関係になるのは倫理的にどうなのかなと……」

『そこが引っ掛かっていたのか。矢野は情報屋を本職のようにしてるけど、小山はあいつの表向きの職業、知らないのか?』

「表向きの職業って……情報屋じゃないんですか?」


 真紀が矢野と知り合った時、すでに彼は情報屋だった。情報屋としての矢野しか真紀は知らない。


『まさか矢野が武田財務大臣の甥ってことも知らない?』

「ええっ? 武田財務大臣って……えっ?」

『あいつ……好きな女に教えておくべきこと、何も話してないのか。アホ……』


早河は呆れた溜息を吐いて呟いた。


「情報が意外過ぎて整理できないんですけど、つまり矢野くんは日本の内閣にいる財務大臣の親戚……?」

『そう。武田財務大臣は俺の親父の親友だから俺もタケさんって呼んで昔から世話になってるんだ。矢野はタケさんの妹の子供。矢野の両親はあいつが高校の時に交通事故で死んで、ひとり息子だった矢野は伯父のタケさんに引き取られた。俺と矢野が知り合ったのもそれからだ』


 政治家の伯父を持ちながらも矢野の両親は他界していた。不意に語られた矢野の過去、仕事仲間にしては親しすぎると感じていた矢野と早河の関係。


『タケさんが矢野の保護者になってからは俺も矢野と一緒にいることが多くてさ。歳も近いし弟みたいなものだな』

「早河さんと矢野くんは兄弟みたいだなってずっと思っていました。本当に兄弟のような関係だったんですね。やっと謎が解けました」

『あんなうるさいだけが取り柄の弟の面倒を見るのは大変だけどな。情報屋の仕事ではない、矢野の表向きの職業はタケさんの議員事務所の事務員だ』


面食らった真紀は口を開けて静止した。矢野が議員事務所の事務員?あの矢野が?


「矢野くんが議員事務所の事務って……この世で一番似合わない……」

『俺もそう思う。あれでも事務員バージョンの矢野はスーツ着てネクタイ締めて真面目に働いてる』

「想像つきません……」

『今度お忍びで行ってみろよ。きっと狼狽えて面白いことになるから』


 イタズラな作戦を思い付いたような子供っぽい表情をする早河に向けて、真紀は笑って首を縦に振った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る