2-5

 電車に乗って二人が向かった先は品川駅の近くにある、しながわアクアリウム。入場券を買って施設内に入ると、涼しい冷房の空気が二人を迎えた。


『打ち合わせ時間までにぐるっと一回りしようか』

「はいっ! 水族館なんて久しぶり」


 はしゃぐ美月を見て連れて来て良かったと松田は思った。彼女の泣き顔は見たくない。

ここが大都会の中心部であることを忘れてしまうほど、魚達が作り出す海のイリュージョンに美月と松田は酔いしれる。


 館内の探索を終えた二人は水族館の係員とイベントの打ち合わせをした。打ち合わせは30分程度で終わり、彼らは外に出た。

冷房の効いた水族館から一歩外に出ると、暑い太陽がアスファルトを照り付ける。すぐそこは品川駅だ。


「水族館ってのんびりできていいですね」

『だろう? 俺は考え事したい時によく水族館に行くんだ。ひとり水族館ってやつ』

「ひとり水族館、いいですね。私もこれからやろうかなぁ」


水族館から品川駅までの道のりを美月は松田より少し下がって歩いていた。


 どうして泣いていたのか彼は何も聞かない。何も聞かず、準備の手伝いを名目にして水族館に連れて来てくれた。

この人は本当に優しい。どうしてここまで優しくしてくれる?


「先輩……優し過ぎますよ……」


 美月が足を止めた。松田も歩くのを止め、振り向いた。


『俺が優しくするのは好きな子にだけ。俺だって誰にでも優しくはしないよ』

「そんなに優しいと……いつか利用されちゃいますよ?」

『いいよ、それでも。好きな子に利用されるなら嬉しいものだ。見向きもされないよりはマシ』


松田は美月の肩を抱き寄せ、両手で彼女を抱き締めた。美月は彼を拒まない。


「利用されて傷付くのは先輩なんですよ……?」

『好きな子が傷付く姿を見るより自分が傷付く方がいいよ。もし好きな子が俺の優しさを利用して笑ってくれるなら俺はそれでいい』


 どうして? どうして貴方はそんなに優しいの?

貴方に優しくしてもらえるような女じゃないのに。貴方が思っているような、心の綺麗な女じゃないのに。


『君を悲しませているのは彼氏だろ?』


 美月を抱き締める松田の腕に力がこもる。その力強さに心臓が痛くなった。


(ダメ。ダメだよ……優しくしてくれるからって、優しさに甘えちゃいけない)


でもこの腕を振り払えない。彼の温かな優しさに包まれていたい。


(苦しいよ……どうしたらいいのかわかんない)


恋人の隼人に感じている漠然とした不安

夏が訪れると思い出す佐藤との悲しい恋物語

見えない影である莉央への嫉妬

自分はこんなにも醜い人間だったと思い知らされる。


『俺なら君を傷付けたりしない』


 松田の指先が美月の涙を拭う。彼女は顔を上げられなかった。顔を上げてしまえば、きっと松田の優しさに甘えてしまう。


 隼人が好きなのに佐藤を忘れられなくて、今、松田に揺らいでいる。

こんな中途半端でふらふらした気持ちのまま、甘えてはいけない。


「もう……優しくしないでください。これ以上優しくされたら私……壊れちゃう……」


 抱き締める松田の腕をほどいて身体を離す。涙を溜めて懇願する美月を見下ろして、松田が溜息をついた。彼は顔に片手を当ててしばらく目元を覆うとその手を美月の腕に伸ばす。


『じゃあ……壊れさせて思い切り嫌われたらいいのかな』


引き寄せた美月にキスをした。突然のことに美月は抵抗もできず、数十秒間触れ合っていた唇が離れた後も彼女は放心していた。


『今の泣き顔見ていたら理性吹っ飛んだ。好きな女の泣き顔は男の理性失くすってわかっててやってる?』


 うつむく美月をまた腕に閉じ込める。指通りのいい彼女の髪がサラサラと夏風になびいた。


『俺のこと嫌いになった?』

「……嫌いにはなれないです」

『無理やりキスされても?』

「……はい」

『じゃあ好きになった?』

「それは……」


彼は黙り込む美月の額を人差し指で軽く突いた。美月は額を押さえて松田を見上げる。


『彼氏と何があった? 話したくないならそれでもいい。でも話して楽になることもあるよ』

「だけど先輩にそんなこと話したら……私、すっごく非常識な人になっちゃう」

『俺が話してほしいって言ってるんだからいいんだよ。何でも聞くよ?』


 貴方の笑顔に今の私は救われている。やっぱり、貴方はどこまでも優しいから、少しだけ、貴方の優しさに甘えてもいいですか……?


 美月は抱えていた不安を松田に話した。何が嫌なのか何が怖いのかも上手く言葉にできなかったが、彼は美月の話を真剣に聞いていた。

上野警部から他言無用と忠告されている部分はぼかしつつ、流れで犯罪組織カオスの話もすることになった。


『犯罪組織かー……。この日本にリアルにそんな組織があるとはねぇ』


ミステリーマニアの松田にはカオスの話題は興味深かったようだ。


『で、君の彼氏にその組織のクイーンって女が接触したってことか。でも何でそんなことしたんだろう。浅丘さんはクイーンとの面識はないんだよね?』

「ありません。その人の……クイーンの恋人のキングには何度か会っているんです。その時はキングが悪い人だとは知らなくて、彼のことはどこかの社長さんだとばかり思っていました」

『浅丘さんって、見かけによらずけっこう危ない道通って来てるよね? そんな、知らずに犯罪組織の人間と会ってる女の子、なかなかいないよ?』

「見かけによらずって……まぁ、色々ありましたので……」


 本当に色々。3年前のあの夏から色んなことがあった。


『月並みな言葉しか言えないけど、ひとりで悩んでいても仕方ないと思う。彼氏にクイーンとのことちゃんと聞かないと』

「でも聞くのが怖くて……今のままじゃいけないのはわかっているんですけど」


品川駅が見えてきた。後ろには巨大なビル群がそびえ立っている。


『また何かあれば何でも話しなよ』

「先輩、本当に優し過ぎます」

『言っただろ。俺が優しくするのは好きな子にだけ。浅丘さんは今は俺の優しさを独占してなさい』


 まだ問題は解決していないけれど、松田に不安を打ち明けて少し気分が晴れた。


 人は時に、一番傷付けたくない人を傷付けてしまう時がある。泣かせたくない人を泣かせてしまう時がある。


恋愛はアンフェア。

愛情の天秤が釣り合わないと片方を不安にさせる。

うまくいかないものだ。

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