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明鏡大学の敷地内に建つガラス張りの五階建ての建物が図書館だ。館内は円形になっていて、中央に五階まで続く大きな螺旋階段がある。
一階から五階までそれぞれ机と椅子が配置され、大学の学生や教諭はもちろん、大学関係者以外の人々もここで思い思いの時間を過ごしている。
「はぁ……終わった……」
三階の一角で課題を片付けていた美月は天井に向けて腕を伸ばした。休学すると決めた時からこうなることは覚悟していたが、1ヶ月の休学は想像以上に痛手だった。
後期授業のスタートとなる10月までに遅れた分を取り戻さないと進級にも差し障る。
美月はあくびを抑えて立ち上がった。昨日はバイト、今日は勉強。
大学生になれば遊べる時間が増えると思っていたがそうでもないらしい。やらなければならないことはこちらの都合もお構い無しにやって来る。
(気晴らしに何か借りていこうかな)
大学の図書館では専門書を借りる機会が多く、他のジャンルの書棚は訪れてもいない。
三階には児童文学の棚があった。今度のミステリー研究会の会報誌のテーマは童話だ。そちらの準備もしなければならない。
無意識に人魚姫の本を探していた。何冊かある人魚姫の書物の中から解釈が分かりやすそうな本を手にとり、ページをめくった。
『浅丘さん?』
書棚と書棚の間の通路で人魚姫を立ち読みしていた美月に声をかけたのは松田宏文だ。
『ひとり?』
「はい。休学していた分の課題を片付けていて……」
先日の告白の件で松田と顔を合わせるのは気まずかった。松田の方はそんなことなかったように、いつもと変わらない。
『なんだかんだ気になってるね』
「えっ?」
『人魚姫。フェアじゃないから好きじゃないって言ってたのに』
美月の手元にある人魚姫の本を見た松田が含み笑いをしている。美月は曖昧に言葉を濁して、本を棚に戻した。
(なんだ。気になってるって本のことか……)
松田の告白を無しにはできなかった。あの告白以降、松田を異性として意識してしまっている。今も。
それを松田に見抜かれたのかと思って焦った自分が恥ずかしくなった。
(どうしてこんなにドキドキしてるのよ)
松田のことはいい先輩だと思う。人柄も好感が持てる。では恋愛対象として好きかと聞かれると答えられない。
(私は先輩の優しさに甘えてるだけなんだ)
松田はこれから夏休みに行うサークルのイベントの下見で水族館に行くらしい。彼と図書館の玄関前で別れた美月は遠ざかる松田の背中を眺めて溜息をつく。自己嫌悪で自分を嫌いになりそうだった。
彼氏がいるのに他の男に告白されて気持ちが揺らいでいる。告白してくれた松田を意識してしまっている。
以前の自分なら、同じ事が起きても絶対に揺らがなかった。隼人と別れて他の男と付き合うなんて考えもしなかった。
もし、隼人以上の人がいるとしたらそれはたったひとり……
「……佐藤さん」
小さな声で呟いた愛した人の名前。彼はこの世にはいない。死んでしまった人にはもう会えない。
美月は肩にかけたバッグの持ち手を握りしめた。
時々、不安になる。最近の隼人は前とは違う表情をしていて何を考えているのかわからない。話していても、上の空。
(隼人はきっと、あのリオって人のこと考えてる)
隼人から寺沢莉央の話を聞かされた時から抱き始めた感情は汚泥のように溜まる一方。
美月を助けるために探偵に依頼しろと助言し、瀕死を負った隼人の怪我を止血して警察に通報した女。彼女の正体は犯罪組織カオスのクイーン、寺沢莉央。
モヤモヤとした感情に支配されて涙が溢れた。
『そんなところで何やってんの? 日焼けするよ?』
頭上から聞こえた優しい声に顔を上げた。夏の太陽に照らされて逆光となった松田の姿が目の前にある。
「先輩、帰ったんじゃ……」
『後ろ振り向いたら浅丘さんがぼぉーっと突っ立ってるから。泣いてるし、心配になって』
松田の温かい優しさにまた涙が流れてきた。溢れる涙を止める術が見つからない。松田は苦笑いして、美月にハンカチを差し出した。
『俺が泣かせてるみたいだなぁ。どうしよう』
「ごめんなさい、えっと、すぐに涙引っ込めます……から……」
『いいよいいよ。泣きたいだけ泣けばいい』
松田のハンカチに涙で落ちたマスカラが付着した。洗ってアイロンをかけて返さないと……と、頭の片隅で思えるくらいには少しだけ、心に余裕が生まれた。
『この後のご予定は?』
「特には……」
『じゃあ準備手伝ってくれるかな?』
「準備って夏休みのイベントのですか?」
彼から水族館のパンフレットを渡された。
『そう。今日は下見と水族館側との軽い打ち合わせ程度なんだけど、下見しながらアイデア練ろうと思って。浅丘さんにも知恵を絞ってもらえると助かる』
「水族館に行けるんですよね?」
『水族館デートの相手が俺でよければ、ね』
ポンポンと松田に頭を撫でられてホッとする。心に溜まる黒い感情が溶けていくようだった。
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