4-11

6月18日(Thu)


 昨日、一昨日の月夜の晴れ間が嘘のような大雨の夜だった。馬込まごめ駅の出口を出た木村隼人の傘に大粒の雨が当たる。


 駅を出てすぐにあるコンビニで夕食用に生姜焼き弁当を購入した。最近は少しだけ自炊の腕が上がってきたと自負しているが、心身が疲れている今は料理を作りたい気分ではない。

仕事が忙しいだけならこんなに疲れはしない。隼人の心と身体を疲弊させているのは、すべて美月が巻き込まれた例の事件のせいだ。


止まない雨に苛立ちを覚える。苛立つのは本当に雨のせい?


 環七通りを逸れて自宅に続く道を歩いていると髪の長い女が道の途中に立っていた。透き通ったビニール傘の柄をくるくる回して、水溜まりの縁をふらふら歩く傍目にも奇妙な女だ。

女の顔がこちらを向いた時、隼人は心臓が止まるかと思った。髪の長い女は傘の柄を回しながら近付いてきた。


『……里奈?』

「お帰りなさい」


 隼人が知る佐々木里奈は茶髪のショートヘアーだった。彼の認識では大学時代の里奈はずっとその髪型だった。

見慣れないロングヘアーの里奈は大学時代の時と変わらず派手な風貌だった。大学の時よりも一段と化粧が濃くなった印象だ。


『こんなところで何してる?』

「隼人に会いたくて待ってたの」


 つけまつげをつけた目元が愛らしく微笑んだ。

仮にも過去に身体の関係を結んだ相手だ。

里奈を可愛いと思ってもいた。しかしそれも昔の話。今の彼女には男として何の感情も沸かない。


 あと少し行けば自宅がある。里奈がこの場所に現れたのなら彼女に自宅を知られていると言うことだ。状況は逼迫ひっぱくしている。


「ここに来る途中に公園見つけたんだ。ね、そこで話さない?」

『……わかった』


話をするつもりもなかったが、この状況を打開するには相手を刺激しない方がいい。


 里奈の後ろを一歩引いて歩く。タイミングを見計らって上野に連絡しよう。

彼女に気付かれないようにビジネスバッグから取り出した携帯電話をスーツのポケットに入れた。


歩きながらこの状況を切り抜けるシミュレーションを頭に描く。いくつか思い付いた案があった。気は進まないが最悪の場合は腕力でねじ伏せる覚悟を決めた。


 雨の降る公園に人の気配はない。ぬかるんだ地面を踏み締めて二人は木材で作られた東屋あずまやに入った。東屋の壁に立て掛けた二本の傘から流れ落ちる雨水が水溜まりを作る。


隼人はビジネスバッグとコンビニの袋をベンチに置いた。里奈の荷物は小さなハンドバッグのみ。

指名手配の身で逃亡しているわりには身軽な装備だ。あんなに小さなハンドバッグでは武器も入らないだろう。


『青木が殺されたよな。ニュースになってた。横浜のホテルで見つかったって』

「そうみたいね」


 平然と答える里奈の口調はまるで他人事だ。青木渡の殺害に関しては里奈が殺害に協力した嫌疑がかけられていると上野警部に聞いている。


『お前がアゲハなのか?』

「そうよ。私がアゲハ。隼人を取り戻すために蝶になったの」


里奈は隼人に抱き付いた。アゲハと認めた彼女を抱き締める腕はない。

アゲハは美月を苦しめた張本人だ。そんな女を愛しいとも思えない。


「隼人……私のところに帰って来て」

『それはできない』

「今日だけ。今夜だけでいいの。私のものになって? そうしたら私、警察に行くから」


里奈の言葉をどこまで信用すればいいかわからない。こんな事態を引き起こした人間の言葉を信用できない。

今夜だけ里奈を抱くこともできなかった。そこに愛がないからだ。


里奈がこうなってしまったのには自分に責任がある。これは女心を弄んだ報いだろう。

だが美月を傷付けた里奈を許すことは一生できない。


『俺が愛してるのは美月だけだ。お前とは戻れない』


 里奈が沈黙した。静かな時間が流れている。東屋の外側は嵐だった。東屋の屋根の上で雨が踊る。


 隼人がスーツのポケットの携帯電話を掴んだのと、里奈が隼人の背に回した手に持つバッグから折り畳みナイフを取り出したのはほぼ同時だった。


「私のものにならないのなら……死んじゃえば?」


 銀色の刃先が隼人の腹部を突き刺した。短い呻き声を上げた隼人の身体がぐらっと揺れる。


『……里奈……お前……』


ナイフを引き抜いた刹那、返り血を浴びた里奈が笑う。血を滴らせたナイフからは赤い雫がポタポタ落ちた。

腹部を押さえる隼人の顔は痛みに歪み、彼のシャツはみるみる赤く染まった。


「私のものにならない隼人なんていらないの。これが私から隼人を奪った浅丘美月への最大の復讐よ。そうよ、隼人がいなくなっちゃえばいいのよ!」


里奈の狂った笑い声も遠くに聞こえる。

呼吸が荒くなり、隼人は膝から崩れ落ちた。濡れた木や土の香りと血の臭いが混ざり合っている。

嫌な質感の生暖かいものが流れ出て、傷口を押さえた手を赤く濡らした。


(美月……)


 美月とは11日に会ったのが最後だ。今週末に美月に会いに静岡に行く予定をしていた。こんなことならもっと早く静岡に行けばよかった。

“気を付けて” 寺沢莉央の忠告の言葉の意味を今さら知った。


(そうか……あの女が言っていたのは……こういうことだったのか……)


里奈の笑い声と雨の音も隼人の耳に届かない。彼の意識はそこで途切れた。

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