4-9
6月17日(Wed)午後9時
神奈川県横浜市中区。日本で初めて事業としてのガス灯が灯された馬車道に面したビジネスホテル。
ホテルの隣のビルはカラオケ、道を挟んだ向かいにはステーキ屋や飲食店のビルがあり、すぐ側には新横浜通りと京浜東北線の線路が横たわる賑やかな地区だ。
ホテルの部屋には青木渡と女がいた。上司のスパイダーが用意してくれたこのホテルに向かう際、女から声を掛けてきた。
青木の好みに見合った彼女とホテルのベッドを共にし、情事で火照った身体の熱も収まってきた。
組織の内部情報を漏洩させた失態をスパイダーに咎められなかったことに青木は安堵していた。謹慎処分は下されたが、しばらくここで女と遊びながら雲隠れしていれば謹慎も解けると、彼は短絡的に考えていた。
これがすべて罠と知らずに。
所詮、捨て駒は捨て駒でしかない。替えの駒はいくらでもいる。
自分は捨て駒ではないという慢心が青木を盲目にさせていた。
まだベッドで寝ていると言う彼女にキスをして青木はひとりバスルームに入る。耳を澄ませると水の音が聴こえてきた。
女は乱れた髪を撫で付け、素早く下着と服を身に付けた。そして手元の携帯電話のメール画面を開き、作成済みのメールをある宛先に送信する。
部屋の扉が閉まらないよう扉にストッパーを当てて彼女は部屋を出た。
廊下でサングラスをかけた彼とすれ違った。彼と一瞬目を合わせた女は口元を上げ、すれ違い様に彼女は分厚い封筒を受け取った。前払いの15万と合わせて30万。報酬にしては破格だ。
「またご利用くださいな」
魅惑的なヒップをゆらゆら揺らして歩く彼女は非常階段から外に出た。
佐藤瞬は女の情報通りの部屋番号で足を止める。ストッパーで施錠を免れた扉は細く開いていた。するりと室内に入り、ストッパーを外して内側から鍵をかけた。
シャワーの水音が聴こえる。サイレンサーが付いた拳銃はオートマチックのマカロフPM。佐藤の愛用品だ。
彼は浴室の扉を開けた。湯気の向こうに青木の背中が見える。
『なんだよ、一緒に入る……』
おそらく浴室に入ってきたのがベッドを共にした女だと思ったのだろう。まさかそこに、スーツ姿の男が立っているなんて青木は思いもしなかったのだ。
佐藤がサングラスを外した。眼鏡をかけていない裸眼の状態で佐藤と対面した青木の顔はみるみるひきつっていく。
青木が言葉を発するよりも速く、マカロフから弾が放たれた。クリーム色のバスタブや壁に飛び散る鮮血。青木の頭部から溢れ出る血がシャワーの水流と交ざり合ってバスルームを血の海で染めた。
『美月を傷付けた罰だ』
怒りを宿した目で佐藤は赤いバスタブに沈む青木を見下ろす。始末を終えた彼は再びサングラスを装着して部屋を出た。
非常階段を降りて待機していた車に乗り込む。後部座席に貴嶋佑聖が待っていた。
『君が人殺しをやらせてくれと頼んできたのは初めてだね』
『スネークだけはどうしても許せなかったんです』
車が夜の横浜の街を駆けていく。梅雨時期には珍しく、昨日と今日は夜は晴れていて月が見えた。
嵌めていた黒の革手袋からは硝煙の臭いが漂う。佐藤は手袋をスーツのポケットに押し込んだ。
『過去の亡霊が自分を殺しに来るとはスネークも思わなかっただろうね』
『俺の顔を見て驚いていましたよ。奴は俺は死んだものだと思っていましたからね』
サングラスを外すともっとよく月の輝きが見えた。月に懺悔を捧げているような気持ちになる。
月は自分を許しはしない。それでいい。
『美月のことをまだ愛しているのか?』
『ええ。愛していますよ』
佐藤は月から目をそらさずに答えた。
たとえ過去の亡霊と成り果てても、血で血を洗う醜いこの手で彼女を守ると誓った。
今夜は月が綺麗だ。
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