4-5

 眠気の押し寄せる午後3時。啓徳大学工学部の研究棟の廊下を歩く渡辺亮はあくびを噛み殺した。

窓の外は雨模様。昼前から降り出した雨は降ったり止んだり、安定しない気紛れな天気だ。


 階段で女とすれ違った。女は顔を伏せて足早に階段を降りていく。

すれ違った時のセミロングの黒髪から香る匂いに懐かしい記憶が甦る。この匂い、すれ違いざまに一瞬見えた横顔……


『あかり?』


階段を降りていた女の足が下の踊り場で止まる。彼女はハァ、と短い溜息をついて彼の方を振り向いた。彼女の顔を確認した渡辺が階段を降りて同じ踊り場に立った。


『やっぱり。あかりじゃねぇか。日本に帰って来てたのか』

「久しぶり……亮くん」


 長身の彼と小柄な彼女の身長差は28㎝。沢井あかりは彼を見上げた。

昔と変わらない優しい笑顔がそこにはあった。


『3年振りだよな。なんでここにいるんだ?』

「帰国したら懐かしくなって、来ちゃったの」

『懐かしいって……工学部の研究棟には縁ないよな。知り合いでもいたの?』

「……うん」


 やっぱり来るんじゃなかったとあかりは後悔した。渡辺亮が工学部の院生だと知っていたのに、彼と鉢合わせする可能性だって想定していたのに。

こんな展開は何度もシミュレーションしてきたのに、上手く笑えない。


『俺と会ってやっぱり気まずい?』


何もかもが3年前と変わらない彼を見ていると胸が苦しくなる。むしろ、3年前よりも大人びた渡辺の姿にドキドキしている。


「亮くんに……会いたかったんだ」


 伸ばした手が彼に届くまでの1秒間。迷いと期待が入り交じる1秒間。

拒絶されたらどうしよう、嫌がられたらどうしよう、離れられなくなったらどうしよう。


「……彼女いるの?」

『いねぇよ。忙しくて女と遊んでる暇もない』


彼の腕を掴んだ手は拒絶されず、逆に強く引き寄せられる。あかりの小さな身体が渡辺の腕の中に収まった


「麻衣子先輩には告白した?」

『してない。麻衣子とはこのまま、幼なじみのままでいたいからさ』

「ふぅん。意気地無し」

『うるせぇ。どうせ意気地無しだよ』

「でもそういうところが好きなの」


 彼の腕の中で身動ぎ、あかりが顔を上げる。腰を少し屈めた渡辺と背伸びをするあかりの唇が重なった。


3年前に別れている男と女は3年振りのキスを交わす。あかりの背伸びが保てなくなると、渡辺は彼女を壁に押し付けた。

さらにキスを迫る渡辺を見てあかりが吹き出した。


「ふふっ。発情期の男の子みたい」

『静かにしてろ』


 優しく囁かれた命令の言葉に従ってあかりは口を閉ざす。ついばむように、とろけるように、重なり合った唇と絡み合う舌。どちらのものかわからない唾液を二人同時に呑み込んだ。

何度目かの息継ぎで唇を離したタイミングであかりの小さな手が渡辺の体を押しやった。


「もう……行くね。人を待たせてるの」

『……ああ』


 するりと腕から抜け出たあかりの背中に渡辺は問わずにはいられなかった。


『お前、今幸せか?』

「……幸せだよ」


今度はあかりは振り向かない。もう一度顔を見てしまえばここから動けなくなる。


「さようなら」


 一言呟いてあかりは階段を降りた。工学部の研究棟を出た彼女は大学前に待機している車に乗った。

後部座席にいる寺沢莉央の隣に座る。


「スネークの姿は見当たりませんでした」

「そう。さっき、大学に上野警部が入って行ったわ。あちらもスネークの存在に気付いたようね」


あかりの横顔を見て莉央が柔らかく微笑んだ。


「会いたい人には会えたのかな?」

「クイーンにはなんでもわかっちゃうんですね」


 苦笑するあかりは無意識に唇に触れた。この唇がさっきまであの人の唇と重なっていた。

今でもあの人が好きだと、心が叫んでいる。


「会えない方がよかった?」

「いいえ。これでようやく……サヨナラできます。本当にこれで最後の……」


(亮くんごめんね。私はあなたには一生言えない秘密がある)


 この秘密をあなたにだけは知られたくないから。もうあなたには会わない。……二度と。


         *


 あかりの姿が見えなくなると渡辺は階段を上がって情報工学科の院生室に入った。

あかりとキスをした唇を軽く袖で拭う。拭った袖には彼女の口紅がわずかに付着していた。


 彼女はどうしてここに来たのだろう。文学部を中退したあかりが何の目的で工学部の研究棟に?


(工学部に知り合いがいるって言うのは嘘っぽいよな。工学部に友達がいるって話は聞いたことなかったし……)


まさか本気で自分に会いに来てくれたなんて自惚れるほど彼はおめでたい人間ではない。しかし工学部であかりと接点のある学生に見当もつかなかった。


『亮。お客さん来てるぞ』

『客?』


 院生の仲間が渡辺の名を呼ぶ。デスクから顔を上げると見慣れた人物が渡辺に向けて片手を挙げていた。

3年前から馴染みの付き合いの上野警部だ。


『上野さん。どうしてここに?』

『君に聞きたいことがあってね。忙しいのに悪いね』


 院生室を訪ねてきた上野と共に廊下に出た。

刑事が突然訪ねてきても興味津々にこちらに関心を寄せる人間はいない。渡辺を呼びに来た院生仲間も今はパソコンに向き合っている。

他人のことよりも自身の研究で頭がいっぱいな人間がこの研究棟には集まっている。


『君の後輩の青木渡くんとは最近会ったかい?』

『青木ですか? いや……アイツとは専攻が違うので同じ学部でも滅多に顔を合わせないですね』

『そうか……』

『青木が何かやらかしたんですか?』


 工学部の学生で沢井あかりと顔見知りの人間にひとりだけ心当たりがある。渡辺が学部生時代に所属していたミステリー研究会には青木とあかりも所属していた。

もしかしたらあかりは青木に会いに来たのかもしれない……そんな漠然とした想像が浮かんだ。


『渡辺くんは美月ちゃんの大学の事件のことは……』

『隼人から聞いてます。美月ちゃんも今は静岡の叔父さんの所に行ってるって。まさかその事件に青木が?』

『今のところ断言はできない。今日、青木くんは学校に来ていないようだ。もしも青木くんを学校で見かけたらすぐに連絡して欲しい』

『わかりました』


 渡辺は頷いた。


 あかりがここに来たことは上野警部には黙っていることにした。きっとそれが自分にできるあかりへの最後の愛情の形だと、何故かはわからないがそう思えたのだ。

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