3-4

 煙草とアルコールの匂いに包まれて、人々は欲の深淵に呑み込まれる――


 新宿のクラブ〈サーカスナイト〉のダンスフロアでは気が狂った人間達が狂喜乱舞していた。

南明日香は二階のカウンター席で酔い潰れている。彼女はテーブルに伏せた顔を上げてカクテルのグラスを握る。

明日香が飲んでいるのはロングカクテル。グラスには青色のカクテルが半分ほど残っていた。


(この後どうしよう。ホテル行こっかなー)


 今夜知り合った男とは気が合い、楽しい時間を過ごせていた。男がトイレに行くと言って席を離れてからどれくらい経っただろう?

下のフロアで躍り狂う野獣達を見下ろして明日香はグラスに口をつける。ゴクリとカクテルが喉を通った数分後、彼女は呻き声を上げてテーブルに突っ伏して息絶えた。


 明日香の苦しみの声も店内に大音量で流れるクラブミュージックに掻き消されて周囲の人間の耳には届かない。

クラブの従業員が明日香の死体を発見して110番通報をしたのは6月7日の23時57分。明日香の心臓が止まった30分後だった。


明日香は誰にも看取られずに孤独に、最期の瞬間を迎えた。


        *


6月8日(Mon)午前11時半


 上野恭一郎は捜査一課の室内でレンタルDVD店の防犯カメラ映像を見ていた。


日付が8日に変わる寸前に死亡した南明日香の死因は毒殺。クラブで明日香が飲んでいたカクテルから検出された毒物は柴田准教授を殺害した毒物と同じ物だった。


 日曜の夜の混雑するクラブは大勢の人間で溢れ返っていたが、明日香の顔を覚えている者は誰ひとりいなかった。

杜撰ずさんな年齢確認で20歳の誕生日前のまだ未成年の明日香を店に出入りさせ、酒を提供していたあのクラブには近々警察の捜査が入るだろう。


 自殺か他殺かの決定は下っていないが、気になるのは明日香の携帯電話のデータが初期化されていた。アドレス帳、通話やメールの履歴、データフォルダのデータもすべてがリセットされてなくなっていた。


自殺ならば死ぬ間際に本人がリセットをかけて初期化したことになる。しかし熱心にブログを更新していたデジタル依存気味の明日香の行為として携帯の初期化は違和感を覚える。


 上野が観ている映像はレンタルDVD店から提出された5月28日の店内映像。柴田准教授殺害時の明日香のアリバイを証明するものだ。

柴田の死亡推定時刻と同時刻に明日香はこの店でDVDを借りていた。店の記録にも明日香名義の会員カードでレンタルが確認されている。


明日香と柴田は同じ毒物で絶命した。柴田を殺したのは明日香なのか? もし明日香ではないのなら、この店内映像には明日香が映っているはずだ。


『警部、この女じゃないですか?』


 原昌也が画面を指差した。レジを斜め上から映した映像には鮮明ではないが、レンタル待ちの列にサングラスをかけた女が並んでいる。

明るい茶髪の女の髪の長さは、エクステをつけた明日香と同じくらいだ。髪色も明日香に似ている。


『サングラスで顔はわからないな』

『でも背格好からこの女が明日香じゃないですか? 柴田の死亡推定時刻と重なりますし、明日香のカードでレンタルされた時刻とも一致します』


 女が映像に現れた時刻は16時26分、店の記録では16時27分に明日香の会員カードでレンタル記録が残っている。


 柴田の死亡推定時刻は16時から17時の間。

明日香の自宅は足立区の千住せんじゅ。渋谷区の明鏡大学から北千住のレンタルDVD店までの移動時間は電車の乗り継ぎを考えても30分以上はかかる。


北千住駅前のレンタルDVD店に16時半頃に存在が確認されていた明日香は柴田殺害時のアリバイありとみなされ、容疑者から外れていた。……これまでは。


 映像の女が明日香なのか上野と原が思案しているところに、足立区の明日香の自宅に行かせた小山真紀から連絡が来た。


{明日香の部屋に日記がありました。5月の末から明日香はアゲハと呼ばれる人物と頻繁にやりとりをしていたそうです}

『……アゲハ?』


その名前を上野は最近目にした。美月に送られた手紙の差出人もアゲハだった。


{明日香の日記にアゲハの名前が登場したのは5月24日、日記によれば24日にアゲハと名乗る人物から美月ちゃんと柴田の合成写真がメールで送られてきたようで、25日に明日香はアゲハと会っています。このアゲハが明日香に美月ちゃんと柴田の嘘の関係を吹き込んだのかもしれません}

『……わかった。日記は証拠品として押収してくれ』


        *


 上野との通話を終えた真紀は証拠品を押収して南明日香の自宅を出た。

明日香の自宅は千住の住宅街にあるごく一般的な一軒家。自宅には明日香の両親が在宅していたが、明日香の死を嘆き悲しむ様子はなく淡々としている。


 明日香の両親は10年前に離婚、明日香は母親に引き取られ、彼女が12歳の時に再婚。母親と義理の父親の間には7歳になる妹がいる。近隣住民の話では両親はこの妹ばかりを可愛がり、明日香には見向きもしなかったと言う。


 この小綺麗な一戸建てで明日香は孤独に暮らしていた。

明日香は寂しかったのだ。両親に構ってもらえない寂しさを彼女は男で埋めようとした。

特に親しい友達もいない、柴田を含む身体の関係を持った多くの男達も恋人ではなく遊び相手。


 何もかもが南明日香と浅丘美月は真逆だった。

美月は両親に愛情を注がれて育ち、何があっても信じてくれる友達に恵まれ、優しい恋人がいる。美月が当たり前に持っているものが明日香にはない。


誰かに見てほしい、構ってほしい、愛してほしい……

明日香のブログから読み取れる異常な自己顕示欲も美月に対する敵意も、家庭環境が起因していると考えれば納得がいく。


(だからって明日香が美月ちゃんを傷付けたことも柴田を殺したことも、許されない。明日香が知らないだけで、美月ちゃんも何もかもを手に入れてきたんじゃないんだから)


家庭環境には同情しても明日香の行為は犯罪だ。美月を陥れようとした事実は変えられない。


 道に停めた警察車両に押収した明日香の遺品を積む。真紀は運転席に乗り込んで押収品の日記をもう一度読み返した。

美月への恨みつらみが綴られたページを読み飛ばして5月26日のページを見る。


 ―――――――――――

  5月26日


 言われた通りアゲハさんと同じ髪型にした。

 これで計画は完ぺき。

 アゲハさんには昨日初めて会ったのに

 そんな感じがしなかった。

 あの人も私と同じなのかも。

 ―――――――――――


         *


 6月8日の午後、警視庁は死亡した南明日香を明鏡大学准教授、柴田雅史殺害の犯人と断定したことを正式発表した。


 明日香の日記に柴田を殺した時の詳細な様子が記載されていた。それが決め手となり、柴田准教授殺害はひとまず被疑者死亡で幕を閉じた。

だが、明日香が自殺か他殺かは未だわからない。彼女が柴田殺害に使用した毒物の入手経路や明日香のアリバイを偽装した女の協力者の存在など不明な点は多く、明鏡大学准教授殺人事件の捜査は続行となった。


 明日香の日記に登場するアゲハと名乗る人物の情報については報道機関には伏せられている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る