第二章 毒牙 ‐ロベリア‐

2‐1

5月28日(Thu)午後8時


 明鏡めいきょう大学総合文化学部の研究室でこの部屋の主である明鏡大学准教授の柴田雅史の死体が発見された。第一発見者は柴田の教え子の四年生の男子学生だ。

死因は毒殺による中毒死。柴田准教授の飲みかけのコーヒーから毒物が検出され、現場の状況から機捜(機動捜査隊)が殺人事件と判断した。


 現場に駆けつけた警視庁捜査一課の上野恭一郎警部はデスクに顔を伏せて絶命している柴田に近付く。倒れたマグカップから溢れた飲みかけのコーヒーがデスクに溢れていた。

デスクトップのパソコンのキーボードにもコーヒーが飛び散っている。


『このガイシャ、かなりの女好きですよ。アドレス帳が仕事関係以外は女の名前だらけ。女関係の派手なセンセイだったみたいですね』


捜査一課刑事の原昌也は柴田の携帯電話のメール履歴を上野に見せる。


『一番最近のメールはこの浅丘美月って女とのやりとりですね』

『……浅丘美月? おい、携帯貸せ』


 上野は原から携帯を取り上げてメール履歴の一番上にあるメールの本文を開いた。差出人の名前は〈浅丘美月〉。


 ――〈先生、昨日はとても楽しい時間をありがとうございました。また二人で会いたいです〉


 上野は眉をひそめた。このメールは本当に上野が知るなのか? にわかには信じがたい。

送信欄には柴田が浅丘美月をデートに誘うような内容のメールもあった。メールの内容から察すると、柴田とこのメールの差出人のは教師と学生以上の親密な関係にあると窺える。


『この浅丘美月って生徒、柴田とデキていたんですね。ここ数日はほとんど浅丘美月とのメールのやりとりが続いています。しかも最近は喧嘩もしてますねぇ。柴田の浮気がバレて浅丘美月がキレてるメールがありますよ。このメールが5月21日……1週間前です』


 再び原の手に渡った柴田の携帯のメール内容を原が音読している。上野は半ば放心状態でメールの内容を聞いていた。

上野が知る浅丘美月は確かに明鏡大学の学生だが、まさかそんなことは……。


『警部、部屋にこんなものが落ちていました』


 鑑識の人間が採取したものをビニール袋に入れて持ってきた。ピンク色をした小さな筒状の物体が袋に入っている。


『女性用のリップクリームですね。学生の落とし物だと思います。付着している唾液や指紋を採取すれば誰のものかわかるでしょう』

『リップクリームか……』


 このリップクリームが上野の当たってほしくない予感を的中させてしまうことになるのだった。


        *


5月29日(Fri)午前10時


 総合文化学部の柴田准教授の殺人事件で明鏡大学は騒ぎになっていた。大学の前には報道陣が押し寄せ、学生達にカメラを向けてインタビューを試みている。


捜査一課刑事の小山真紀は職員の案内で総合文化学部の学部棟に入った。スーツを着た真紀を通りかかる学生達がチラチラ見ている。


『学生達も動揺していますので、話は手短に……』

「わかっています。充分に配慮致しますので」


 総合文化学部の講義室には柴田准教授が受け持っていたゼミ生が集まっている。明鏡大学は2年生からゼミがあり、2年から4年生の学生が学年ごとに着席していた。

真紀が渡されたゼミ生の名簿には彼女の名前があった。3年前の2006年に静岡で起きた殺人事件の関係者だった浅丘美月。


(3年前のあの子か……)


 真紀は3年前に美月に会っている。警視庁を訪れた美月の事情聴取を担当したのは真紀の上司の上野と、当時は刑事であった早河仁だ。真紀は美月の事情聴取に立ち会っていた。

美月は真紀のことを覚えていないだろう。3年前の件は思い出さない方がいい。あの事件の一番の被害者は浅丘美月なのだから。


 講義室の中にいるゼミ生はほとんどが女子学生だった。もともと総合文化学部の学生は男子より女子の比率が高いが、柴田准教授のゼミは女子学生が多いことで有名だった。


教壇の前に立った真紀は講義室を見渡した。大学に通った経験のない彼女にとってこれほど広い教室はもはや異空間だ。どこを見ても女だらけの世界に辟易へきえきする。


「警視庁捜査一課の小山です。皆さん、柴田先生があんなことになって驚いているよね。柴田先生の事件は殺人事件として捜査を進めることになりました」


講義室がざわついた。女のお喋りは一度始まるとなかなか治まらないと真紀は同性だからこそ知っている。こんな時でも女はお喋りだ。


(大学生相手はやりにくいなぁ。女には女って警部は言うけど、女子大生への聴取なら原さんの方が向いてるんじゃないの?)


女の扱いならば同僚の原昌也が適任だろう。今からでも原に担当を変わってもらいたいくらいだ。


「静かに。皆、私の話を聞いてくれますか?」


 真紀が少し大きな声を出した途端に室内が静まり返った。これでもお喋りが終わらなければ教卓を蹴り飛ばしてでも静かにさせるつもりだった。

お喋りが静まった講義室ではうつむく者、携帯電話を弄る者、化粧をしている者、様々だった。


「柴田先生を殺した犯人を捕まえるために、皆さんの協力が必要です。柴田先生はどんな先生だった? なんでもいいの。私に先生の話をしてくれないかな?」


 最初は誰も話さなかった。噂話はいつまでも話しているくせに本題になると口をつぐむ。大勢の前では話しにくい、自分が言わなくても誰かが話してくれる……そんな甘えが人にはある。

真紀が根気よく待ち続けて数分後、ひとりの女子学生が口を開いた。


「……いい先生だったよね」

「うん、優しかったしゼミも面白かった」


ひとりの発言をきっかけとして他の学生もどんどん口を開く。


「だけどちょっとセクハラっぽいとこあったよね」

「あったあった。お気に入りの子をプレゼンのチームリーダーに指名したりね」

「リーダーになると先生の部屋に呼ばれたりもするしねぇ」


女子学生のお喋りはあっという間に講義室に広がる。お喋り好きな学生達のおかげで、真紀は柴田の人物像を掴めた。


(先生としての評価は高いけどセクハラのようなことはあったわけか。気が滅入るな……)

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