第二章
第二章
次の日。
「この頃、咳き込まなくなったな。少し小康状態か。」
杉三が水穂の枕元で、にこやかに言った。
「そうですね。ただ、油断は大敵ですから、あんまり過大評価はしないでくださいよ。」
ジョチも最近咳き込むのが減少した水穂に対し、ほっと溜息を付きながら言った。
と、そこへジョチのスマートフォンが鳴る。
「はい、曾我です。あ、恵子さん。なんでしょう。」
「あら、恵子さんが電話かけてくるなんて、どういう事かいな。」
杉三が小さい声で呟いた。
「はいはい、あ、そうですか。わかりました。そうですね。確かに、勘違いから発言してしまうと、後足が悪くて、いつまでも引きずってしまいますよね。そういう時には、すぐに対策を打つべきでしょう。わかりました。ではそうしましょう。じゃあ、杉ちゃんに伝えておきまして、本人の確認を取ったら再度連絡入れますよ。」
と言って、電話は切れた。
「杉ちゃん、一寸お願いがあるんですけど、旅費の一部は僕が出しますから、すぐに北海道へ行っていただけますかね。」
「北海道!なんだそれ。」
いきなり言われて面食らった杉三であったが、ジョチに丁寧に事情を説明されると、
「こんな風来坊が役に立つんなら、それなら行くことにするよ。たしかに、体が不自由であることって、なかなか受け入れにくいことでもあるからね。最も僕はバカだから、初めっから受け入れるとか関係なく呑気でいるけど。」
と、カラカラと笑った。
「そうでしょう。たぶん久保さんのご両親が、秀明さんを呼び出したがったのは、障害があってもしっかり生きているってことを、見せてやりたかったんだと思うんですよ。多分そういう人を連れてきて、息子さんにもう一度活気を取り戻してほしいんでしょう。だからご両親で電話をよこしたんですよ、恵子さんのお宅へ。しかもお母様ではなくお父様が電話をよこしたそうですから、これは重大だと思いますよ。」
「そうか。でも、僕みたいな呑気な風来坊じゃ、ちゃんと生きているとは言えないな。もうちょっと真剣に生きている奴を探さなきゃ。そうだなあ、もう一人くらいほしい。よし、お前さんも来いよ。」
と、杉三が、布団に寝ている水穂を見た。水穂はぎょっとする。
「無理ですよ。僕みたいなのが、北海道へ行けるほど体力ありませんよ。」
すぐにそう反論する水穂だが、
「いや、大丈夫だ。最近は咳き込まなくなってるし、生きるのに純粋な人物と言えば、たぶんお前さんだけだと思う。それをおしえるには立派な教材になるよ、お前さんは。」
と、杉三に言われて、小さくなってしまう。
「そうですね。確かに、生きる気力を亡くした若者を活気づけるには、良いかも知れませんね。それでは、そうしましょうか。もし、なにか重大なことがあったら、留萌のすぐ近隣にある羽幌に、買収した介護タクシー会社があるから、それを利用すればいいでしょう。」
「羽幌ですか。そんなに遠くにある会社まで買収したんですか?」
思わず水穂がそう聞くと、
「あ、はい。なんとも、介護タクシーをもうちょっと親しみやすくするために始めたんだそうです。羽幌にした理由は、大都会より、そっちの方が需要があるからって。まあ、最近はインターネットもあるから、遠く離れたところでも、すぐに交渉できますよ。」
何て当然の様に答えが返ってくるので、これではもう、北海道へ行くしかないなあと思ってしまう水穂だった。
「まあ、北海道新幹線を利用してもいいのですが、ここは手っ取り早く、新千歳空港行きの飛行機を取りましょう。そのほうが速いでしょうからね。幸い羽田を使わなくても、存在感が薄いですが、静岡空港から、新千歳空港行きがありますから、それを利用すればいいでしょう。」
なるほど、さすがは実業家だけあって、そういう事はよく知っている。
「たぶん一時間もしないでいけるんじゃないかな、と思います。ちなみに、滞在先の久保さんのお宅は、増毛というところにあるそうです。とりあえず新千歳空港に着いたら、お迎えに来てもらえばよいのではないかと思います。」
「よし、わかったよ。じゃあ、それで行ってみるわ。北海道というと、大きな広い牧場と、ホルスタインがいっぱいいるのを思い出すな。」
杉ちゃんとジョチがそういう話をしているのを、水穂は不安でいっぱいになりながら、それを聞いていた。
そして、其れから二日ほど経ったある日の事である。
蘭が、買い物に行こうと、杉三の家のインターフォンを押したが、いくら押しても出ないので、あたまを悩ませていた。
「おーい杉ちゃん。何処へ行ってしまったんだ。僕に何も言わないで。」
いくら押しても、答えが返ってこない。まあ、出かけるのが大好きな杉ちゃんなので、誰かと一緒に東京にでも行ったのかと、勝手に思っていたのだが、留守にしている時間があまりにも長すぎる。
「おかしいな。」
と、考えこんでみても、杉ちゃんがどこへ行ったのか、まったく思いあたる用事がないのだ。
「もしかしたら、警察沙汰になるようなことをしてしまったのだろうか?」
と考えついて蘭は、富士警察署に行くことにした。しかし、自力で行くとなると、時間がかかりすぎてしまう。タクシーを呼ぼうと思ったが、待ち時間がもったいない。それではいかんという訳ですぐ近くの郵便局前から、バスで行くことにした。郵便局はすぐ近くだ。車いすの蘭でも、それくらいすぐにわかった。郵便局前は、バス停留所があって、そこから警察署へ直行できるバスがあったはずだった。
たしかに郵便局はすぐ近くだ。それははっきりしている。
バスの本数も比較的多く、一時間に五本は走っていたから、すぐに乗れるだろうと蘭は思っていた。
ところが、バスが来る直前、郵便局の正面玄関がガラッと開いた。そこから出て来た人物を見て、蘭はこう声をかける。
「あっ、お前は波布だな。お前、郵便出しに行くのは、手伝い人を頼まないで、そうやってやるんだな。」
蘭は、その人物に対してどうしてもこういう態度をとってしまうという悪癖があった。沼袋さんに其れ、なんとかなりませんかと言われているけれど、今の蘭にはまだできなかった。
「蘭さん、本当に余分なことばっかりやっているんですね。こんなところでバスを待って、どこへ行くんですか?」
ジョチも蘭のその悪い癖を知っているようで、やれやれとため息をついて、蘭にそんなことをいった。
「決まってんだろ。杉ちゃんが、家にカギをかけてどっかに行っちゃったから、その相談に行くんだよ、警察へ。」
「はあ、そうですか。其れなら調べる必要もありません。杉ちゃんと水穂さんなら、今日、静岡空港から北海道へ行きましたよ。今頃、札幌ラーメンでもたべているんじゃないですか。」
「何!」
蘭は怒るよりも呆然としてしまった。
「どこへ行ったんだ!」
「だから、言いましたでしょ、北海道。」
「北海道だって!水穂はそこまで体力が、もし何かあったらどうするんだよ!」
「大丈夫ですよ。外国へ行くのとはちがうんですから、たぶん何とかなりますよ。それに増毛は空気はいいし、どこかのんびりしていて、水穂さんのような体の弱い人には、過ごしやすいかもしれませんね。」
「そういう問題じゃないよ。」
と、蘭は息巻いた。そうではなくて、もっとほかに心配することはあるのではないかと思ったが、そんなこと必要ないとジョチはその目でそういっている。
「貴様!バカにしているのか!」
蘭は思わずそういってしまったが、周りの人たちが、何があったんだと蘭をじろっと見た。
「いいえ、バカにはしていません。あの二人には、あの二人でないとできない事があるから、北海道へ行ってもらいました。なんとも、生きる気力をなくしてしまって、どうしようもない青年を励ますためです。蘭さんには絶対に出来ないでしょう。適材適所とはこのことだ。そういう繊細な人には、杉ちゃんのような、自称風来坊が、一番いいのかもしれませんね。」
「こら、波布!せめて水穂ではなくて、ほかの人物を行かせることはできなかったのか。あいつには、もう、どこかへ行くことは出来ないのでは?」
蘭はそれをこの波布と呼んでいる人物に対して一番伝えたかったのであるが、それは届かなかったようである。
「いいえ、水穂さんであっても、伝えられることはちゃんとありますよ。いいですね。僕たちよりも、そういう優れた技能を持っている人は。それに本人も気が付いていないことのすばらしさは、本当にすごい。僕らも、こんなところで汚らしい波布とマングースの戦いをしているのではなくて、もっと若い人たちに、エールを送ってやれるような生き方ができるようになりたいものですな。蘭さんも、余計な執着は捨てたらどうですか。」
そういわれて蘭は、返す言葉がなかったが、やっとの事でこれだけは言いたい事を見つけだし、口に出してこういった。
「貴様のやっていることは、水穂の寿命を縮めることだ!」
「さあ、どうでしょうか。それは、やってみなきゃわからないでしょうね。」
やっぱり波布とマングースの戦いは続くのだ。
「ではごめんあそばせ。」
と、波布はあらためて羽織の襟を整えて、バス乗り場とは逆の方向へ歩いていく。
マングースは吐息をついて、悔しがったのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます