ゆくらゆくら
増田朋美
第一章
ゆくらゆくら
第一章
電話が鳴っている。だが手がふさがっていて誰も出ない。化粧室で用を足した恵子さんは、超特急で手を洗い、急いで電話台に直行した。
「はい、もしもし、前田ですが。」
「あの、妙なことで申し訳ないのですが、、、。」
電話の相手は、中年の男性である。
「はあ、何でしょう。」
「あの、小濱秀明、あ、失礼、今はもう前田秀明でしたね。その前田秀明ですが、今、御在宅でしょうか?」
ちょっと口ごもりながら、その男性はそういっている。まるで、用件をいおうか言わないか迷っているかの様に。
「あの、すみません。お宅様はどちら様でしょうか!」
恵子さんはちょっと口調を強くしてそういった。もしかしたら、詐欺電話かもしれないと思ったのだ。でも、詐欺電話をするなら年寄り相手にかけてくるはず。うちには、確かに年寄りもいるが、秀明はまだ40にもなっていない。其れならいつか秀明も所属していた、あの麻薬販売組織がまたかぎつけてきたのだろうか。恵子さんは、背筋がぞっとした。それを隠して、
「ちょっと!名前くらい名乗っていただけないでしょうかね!」
と、わざと強気の女性を演じてみせる。相手のほうも、それにびっくりしたらしく、ああ、すみませんと謝罪した。しかしその次の口調は、そういう妻を持てる秀明がうらやましいというニュアンスも入っているような気がする。長年製鉄所で、利用者の顔や態度などで心情を判断する技術を身に着けていた恵子さんは、そういうのを読み取るのが、うまくなっていた。
「あの、すみません。本当に、秀明は今いないんでしょうかね。ちょっと相談したいことがありまして。僕は、増毛の久保和男、旧姓小濱和夫なんですが、、、。」
「はあ。ましけの久保和男?第一ましけってなんなのよ、ましけって。もしかしたら、また何か悪い組織にでも主人を入れようって言うんじゃないでしょうね。悪いけどねえ、うちの主人は片腕ですもの。あんたたちが呼び戻したって、何の役にも立ちませんわよ!」
恵子さんがムキになって、そういうと、その人は一つため息をついて、
「いいなあ、そういう女房が居れば、秀明も困らないでしょう。うちの家内なんて気弱な女でテンでだめです。もう一度聞きますが、秀明は今は御在宅ではないのですか?」
と尋ねてくる。
「だからあ、秀明はリンゴ畑に行きました。たぶん、夕方まで戻ってきません。それでよろしいでしょ!」
と、でかい声で恵子さんは怒鳴った。
「そうですか。わかりました。そこまで言ってくれる女房をもらえて、英明も幸せ者だ。まあ、気が向いたらでいいです。増毛の久保和男、旧姓小濱和夫が電話をよこしたと伝えてください、それでは、、、。」
と、段々消える様に呟いて、その人は電話を切ってしまった。あーあ、まったくこんな変な電話をよこしてくるなんて、懲りない犯罪組織がある物だわ、と思ったが、本当の事を言うと、怖くてしょうがなかったのである。
とりあえず、その日は一人でお昼を食べて、いつも通り洗濯物をたたんで、かるく部屋の掃除をし、晩御飯を作って、英明と恵子さんの父勇が返ってくるのを待った。まもなく、恵子さんの母春子も趣味の茶道教室から戻ってきて、みんなの前にご飯を並べ、各々のペースで食べていた時。
また、電話が鳴った。この時、恵子さんは、口の中にすでにご飯が入っていて、出ることができなかったので、丁度手の空いていた母春子が、お茶の先生からだろうと言って電話に出てくれた。春子は、いつも通りにこやかに応答していたが、いきなりえっという声を上げて、どうしたんですか、どこの病院へ?とか聞き始めた。その末尾に、ましけの久保さんですね、わかりました、という声が聞こえる。
「まただわ。」
恵子さんは嫌そうな顔をした。
「どうしたんだ?」
恵子さんの父、勇が、そう聞くと、
「いやね、今日変な電話があったのよ。中年の男性の声でさ。増毛の久保さんという人らしいけど、いったい何の組織なのかしらね。全く。あたしが、一寸疑いをかけたら、何だか、うらやましそうな顔をして、切れちゃったわ。」
恵子さんがそう答えると、英明がすぐに顔色を変えて、お茶をガブッと飲み込んだ。
「恵子さん、本当に増毛の久保さんと言っていたんですね。」
「そうだけど?」
恵子さんは、思わず言うと、
「それ、僕のおじさんの事ですよ。久保さんと言えば久保和男さんで、旧姓小濱です。父の一番下の弟さんで、タクシー会社の社長の婿養子になったんで、現姓は久保ですが、それまでは小濱和夫と名乗っていました。となると、また何かあったんですかね。」
と秀明は答えた。そして、椅子からすぐに立ち上がって、すみません、電話変わっていいでしょうかと、春子に聞く。春子はそのほうがいいとすぐに受話器を渡した。
「一体何なの?何があったのよ。」
恵子さんは、母に聞いてみる。母は、ずいぶん大変ねといたわるような顔をしていた。
「増毛というのは、北海道の地名だよな。」
勇がそういって、初めて恵子さんはましけが増毛だったのだと知った。
「北海道はアイヌ語から当て字をした地名があるだろ?だから変な名前の地名が時々あるんだよ。ら、蘭留とかさ。」
父はそういって、にこやかに笑っている。なるほど、そういう事だったのか、てっきり増毛というのはどっかの組織の名前ではないかと、恵子さんは勘違いしてしまっていたのである。
「しかし、そうなると、何の用事で電話何かかけてよこしたのかしら。」
恵子さんがそういうと、
「ええ、息子さんが倒れてしまったんですって。なんとも、一命はとりとめたようだけど、後遺症が残ってしまって、大変だそうよ。」
と、母春子が心配そうに言った。
「へえ、で、どうなるの?」
「どうなるのって、これから大変な生活になるでしょうよ。何でも、大切にしないと、手の施しようがなくなるって言ってたわ。それで、秀明君に手伝いをお願いしたいんですって。」
「うーん、でもさ、今彼を取られたら、こっちもリンゴの剪定なんかで人が足りないんだよ。」
母がそういうと、父が困った顔で言った。恵子さんがため息をついた時点で、電話が切れる。
「あ、どうだった?秀明君。いつ北海道に行くことにしたの?」
春子がわざとらしく言うと、
「いや、北海道は行かないことにしました。僕はごらんのとおり片腕ですし、それでは、何の役にも立ちません。実質的な介護なんて、おそらく僕にはできないでしょうし。」
と、秀明は答えた。
「行ってやればいいじゃないか。うちのリンゴ畑の事なら、また人を頼むことにするよ。」
勇がそう優しく彼を励ますが、恵子さんは秀明が親族の下に戻らないのは、きっと前科者であるから、恥ずかしいという気持ちもあるんだなと、すぐに感じ取った。
「でも、親戚なんだから、行ってやった方がいいのではないの?」
春子がそういったが、
「いいえ、僕は、リンゴ畑を何とかすることに事に、今は専念したいと思います。あの家に行っても、どうせ、何の役にも立たないのは目に見えてますし。それに、片腕になったことは、何も恰好いいことではありませんので。」
秀明は、そう答えを出した。
「一体何をいわれたの?」
再度春子がそう聞くと、
「ええ、なんとも、息子の久保慶介君が、体を悪くしてしまって、それで力になってもらえないかと。具体的に言ったら、片腕になった僕が、彼を励ましてやってくれないかという依頼でした。そんなことするのに、僕は、ふさわしくありませんから。」
と、秀明は悪びれずに答えた。
「でも、秀明君。頼まれたんだから、やってあげたほうがいいわ。だって、慶介君のお母さん、ろれつが回って居なかったわよ。相当疲れているんじゃないの?それでうちへ電話をよこすんだから、相当つらかったと思うわよ。」
春子がそういうと、そんなに深刻なのかいと勇が聞いた。春子が今さっきかけてきたのは、慶介君のお母さんの久保たか子さんという人物からで、彼女自身も不安で睡眠剤を飲んでいるという話だと説明した。そうなると、昼前に電話をよこしてきたのは、その旦那さん、つまり、慶介君にとってはお父さんだったのだろうか。おじいちゃんということは、秀明の父がすでに亡くなっているので、それはまず
ありえない話だ。そうなると、問題はかなり深刻なのだろうか。其れなのに自分はあんな口の利き方をしてしまって、まずいことをしてしまったと、恵子さんは思った。あんな言い方をして、一度は謝罪をしなければと思う。
「とにかく、僕は、久保さんのお宅へは力になれないので、無理だと言って断りました。だから、今まで通り、リンゴ畑の仕事をしますから、気にしないでください。」
秀明は、気を取り直して、おいしそうにご飯を食べ始めた。勇も春子も食事を再開したが、どうもおいしいとは感じられなかった。
やがて食事が終わって、皆それぞれの持ち場に戻った。しかし、恵子さんは、食器の片づけを後回しにして、電話台のほうへ行く。
電話機を操作して着信履歴を調べてみた。たしかに見慣れない番号から、二回かかってきている。其れも同じ番号からだ。ああ、悪いことをしてしまったなあと、恵子さんは思った。
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