第5話 「 ひたひたと心波立つ夕暮れ 」

 日が落ち、明かりをつける人もいない夜の庭園を皐月は見下ろしていた。


 ふたつの月が静かに空をよぎっていく。

 明かりが無くても庭のラビリンスがよく見えるのは、月明かりが強いからなのだろうと思いながら時を過ごした。


 夜の間も殺戮者さつりくしゃの存在を思い出させようとするように、遠くから悲鳴が聞こえてくるのを皐月はじっと聞いていた。






 夜が明けて、猫にせがまれるまま皐月は朝食を与えた。

 猫はまだ皐月を警戒しているらしく、食べている間じっと彼女を見つめながら食べていた。


「猫ちゃんって言うのも他人行儀だから・・・、名前を付けよう」


 食べ終わり体を舐めていた猫は、皐月の声を聞いて動きを止め黙って皐月に目を向ける。


「んー・・・。 ホワイティー、スノー、雪ちゃん、ジジ・・・は白いから似合わないね」


 そっぽを向いた猫が首を掻く。足の動きに少しずつ回転する首輪に、文字が書かれていることに気付いて皐月はそっと近づいた。


「大丈夫だよぉ、何もしないよぉ。 ちょっと見るだけ、見るだけだよぉ」


 掻いていた足を下ろして猫が逃げる体勢をとる。

 皐月は猫が逃げないギリギリの所まで近づいて首輪の文字に目を凝らした。見たこともない文字が書かれていたが、不思議と読むことが出来た。


「・・・クリスタ」

「にゃぁん」


 猫が甘い声で返事をした。


「クリスタちゃん」


 喉を鳴らす猫の表情が軟らかくなったのが分かった。


 甘えたそうにする猫に手を伸ばすと猫は体をひるがえして逃げた。しかし、少し離れたところで喉を鳴らし、コロコロと転がってお腹を見せたりしている。手を伸ばすとやはり逃げるが、また転がる。


「ちょっとぉ、どうしたいのよぉ~」


 猫の変な行動に皐月は声を立てて笑った。


 縮まるようで縮まらない猫との距離がありながら、猫じゃらしを見つけて遊び、時折庭を見下ろして日中を過ごした。

 相変わらずラビリンスの中を人が歩いている。ぎくしゃくと足を引きずるように歩く者もいれば、首が真後ろを向いたままゆらゆらと歩く人もいた。


(やっぱり、人じゃないのかも・・・)



 映画で見たことのあるゾンビの動きに似ていた。

 所々破れた服には返り血かその人のものらしい血が付き、うつろな表情で歩いている。時折出会い頭に襲いかかっては、相手が人間ではないことに興味を失い互いに離れていく。


 窓の下に目を向けると昨日見た女性の亡骸がそのままあった。


 腕も脚もなく内蔵も無くなり乳房も無くなっていた。その亡骸が奇妙にヒクヒクと動いていることに気付いて、ゾッと鳥肌が立ち皐月はすぐさま窓を閉めた。





 日がだいぶ西に傾き、猫が夕食をさいそくする。


「クリスタ、あなたのお腹は時間に正確ね」


 猫が餌を食べているのを見ながら、皐月は自分が空腹を感じない事を不思議に思った。


 昨夜から一睡もしていない。寝ていないにも関わらず眠気はこなかった。疲労感もなく空腹も感じずトイレに行きたいとも思わなかった。


 最初は恐怖からくる緊張のせいだろうと思っていたが、それだけなのだろうか・・・。


 皐月は姿見の前に立ち、もう一度自分の姿を見た。今度は鏡に触れるほど近づいて自分をくまなく観察した。


 顔は初めて見たときに比べて青ざめているように見えた。栄養不足で貧血気味になっているのだろうか? 

と考えたが、最後に食べたのがいつなのか皐月には見当もつかなかった。


 首もとや腕を確認し、肩に掛かったそでを抜いて胸や背中も確認したが、変わった様子は無かった。

 袖を通して服を着直し、何枚か重なったドレスの裾を少しもたつきながらたくし上げる。


 そして、異変を見つけた。


 左足のふくらはぎに、4本の赤い筋を見つけた。それは猫に引っかかれた跡とは違い、もっと大きな物にやられた傷跡に見えた。


 触れてみると既に血は枯れ、指に何も付くことはなかった。


 斜めに長く付いた4本の傷跡は、痛々しそうにパックリと開いている。それにも関わらず血も何も付かない事に違和感を感じた。どう見ても治りかけの傷口には見えないのに、血も出ず痛みも感じないとはどういうことだろうか。


 皐月の中で、ザワザワと不安が押し寄せてくる。


(この傷、なんなの? 変・・・だよね。傷がこんなに大きいのに・・・・・・)


 外を徘徊するゾンビのような人間達。

 足の傷。

 青白い顔。


 ひたひたと不安の陰がやってくるのを皐月は気づかない振りをした。


 皐月は家具の引き出しをあれもこれも引き開けて足に巻く布になりそうな物を探した。応急処置の真似事のように布を巻き、足の傷跡を見えなくして皐月はベッドで丸くなった。


 目を閉じて身じろぎもせずにそうしていた。


 しばらくして、皐月の背に柔らかな物が触れる。


「・・・クリスタ?」


 声をかけると背後でクリスタが喉を鳴らした。


 子供の頃、不安な時にはぬいぐるみを抱いて寝た。白熊の大きなぬいぐるみ。


(ポーラちゃん・・・)


 何度も洗ってクタクタになりボロボロになって、さよならした夜には悲しくて枕を濡らした。皐月の最初の戦友。


 最近はピンクの地に白抜きのハート柄の抱き枕を置いていた。もう捨てられてしまったのかもしれない、そう思って皐月は切なくなった。

 

 抱きしめれば柔らかだろう猫の体に、手を伸ばしたい気持ちを抑えてそのままじっとしていた。手を伸ばせばきっと逃げてしまうだろう。それは淋しかった。








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