第7話 兄の周り、女の子多くない?
秋春が凛に呼び出されて出かけた後。
リビングのテーブルの椅子に座った白いスウェットのワンピース姿の咲季はティーカップを片手に外の日差しを浴びながら読書に勤しんでいた。
手入れを怠っていない艶のある黒髪がはらりと本に垂れ、それをどけるために手で耳にかける動作。その優雅さたるや、まさに深窓の令嬢と評するが相応しい。
「ふむふむ、最強モテワードは〝こんなの初めてぇ♡〟ね…………」
しかし読んでいる本と考えている内容は実にくだらない内容であった。
題名『この本読んで二秒で玉袋握れたんだが質問ある?ww』。ハウツー本である。
咲季は飽きもせず今日も今日とて兄、秋春の好意をいかに自分へ向けさせるかという、秋春が聞けば「馬鹿かお前」と冷めた目で一蹴されるような事を考えていた。
「〝男はタマで物事を考える動物。脳みそは無い〟ね……ふ、愚かな」
ゴミのような書籍である。
「帰ってきたら裸エプロンで言ってやろうかな?こんなの初めてぇ♡……いや、いきなり言われても不自然なだけ。何か〝こんなの初めてぇ〟な何かをお兄ちゃんがやらなければ言葉に意思は宿らぬ……」
そして不毛なシュミレーションを繰り返しては唸っている。
入院しているときは一人でいる事が多かったからか、独り言がデフォルトになっていて下手な一人芝居でもしているよう。
そんな中咲季がふと、我に返ったように天井を仰いだ。
「お兄ちゃんが出かけてから一時間」
スマホのスリープを解除して時刻を確認し、またスリープにして机に置く。
「なーに話してるのかなぁ、あの三人」
あの三人とは当然
舞花が落ち込んでいるならと殊勝な態度で秋春を彼女らの元へ送り出しはしたものの、
「……お兄ちゃん、舞花にでろでろメロメロになってないかなぁ、心配だなぁ、舞花可愛いからなぁ」
結局めちゃくちゃ気になってしまい、思考を中断するとすぐにこんな考えが過ぎっては消えていく事を繰り返していた。
それもそのはず。なぜなら舞花は藍原高校で『姫様』なんて密かにあだ名が付くくらいには人気があるのだから。
過去、文化祭の演劇で演じたお姫様の姿があまりにも可愛かったという理由でついたあだ名。普段の棘のある言動とのギャップでやられた男子は多かったそうだ。あどけなく善性に満ちた性格の役柄は舞花の小柄な体躯と童顔に驚くほどマッチしていて、実際にそれを見た咲季も思わずにやけてしまうほどの可愛らしさだった。
秋春の話をしている時の舞花はその時を
「お兄ちゃんのストライクってどんな子なんだろ? 結愛ちゃんの事今は苦手って言ってるけど昔は明らかにちゅきちゅきちゅっきだったし、やっぱり清楚系? だったら舞花はタイプ違うし大丈夫かな。けどお兄ちゃんに生チョコあげてた女は見るからに地雷女だったから守備範囲が太平洋並みなのかも……」
椅子の上でじたばたしてテーブルに時々手足をぶつけ、「いった!」と叫びつつも思考は完全に兄が舞花にコロッとやられないかという疑念へと向けられていた。
「それはそれとしてなー! お兄ちゃんからアプローチする事は無いにしても、向こうから押されたらずるずると押し負けそうなんだよねー!」
先日行った咲季の退院パーティーでの舞花を見るに、秋春への恋愛感情は確定だった。
だからといって舞花を嫌ったりはしないが、その恋を成就させようとも思わない。だって秋春は咲季にとって唯一無二の大切な存在なのだから。
本を置いて椅子から立ち上がり、リビングの周りを忙しなくグルグルと周る。挙動不審だ。
「お兄ちゃん恋愛の駆け引きとかゴミだし態度もゴミだけど優しさが滲み出てるからなー! さりげなく惚れ直させるような事とかしそーー! やっぱり私も付いていけば……」
ピンポーン。
段々とヒートアップしてきた思考を冷やすように鳴り響いた家の玄関のチャイム。
時刻は10時過ぎ。何かのセールスか通販の宅配か。咲季はその二択の予想をもってリビングの中にあるインターホンの親機へ近付いた。
この家のインターホンはカメラが付いているタイプのもので、インターホンが鳴ると外の映像が映し出されるようになっている。
ひとまずそれを確認すると、
「……むう?」
映っていたのは二十歳前後の若い女性。しかも一目で分かるほどの美女。身なりに気を使っているのがよく分かるショートの髪と健康的な肌。冷めたように映る切れ長の目は勝ち気と言うよりは落ち着いた印象を与える。
咲季には全く覚えがない女性。
「はい」
警戒心を薄くまとわせつつ通話ボタンを押すと、女性は長い睫毛に守られた
「あの…………片桐秋春さんのご自宅でよかったですか?」
「えっと、失礼ですがどちら様でしょうか?」
防犯の意識から先に名乗るように促すと、女性はうっかりしていたのか「あっ」と声を漏らし、
「すみません、名前も名乗らず。わたしは
##
――なんか勢いで家に入れちゃった。
咲季は防犯意識であったり辻堂の一件を経験していながら、不用意に秋春の友人を名乗る女性……
理由は明白。
「だってしょうがないじゃんお兄ちゃんにわざわざ会いにこんな美人さんが来るなんて今まで結愛ちゃん以外にないんだもんさぁ……!こんな時にさぁ、気になるじゃんよさぁ……!」
聞こえないように呟く。
リビングのテーブルについてもらった杏にお茶を出し、平静を装った咲季はその正面に座る。
改めて目の前の美人を観察。まず、身長が高い。秋春と同じくらいか、少なくとも170cmはある。ハーフスリーブのᎢシャツとハイウエストのショートパンツといったラフな格好だが、活発というよりは
今まで咲季が会ったことのある人物で言うなら、幼馴染の
しかも、
「あの」
「は、はひ!」
声が普段聞く機会の無いレベルの可愛さだった。
小さな少女を思わせるようなウィスパーボイス。咲季のドストライクの声質である。
あまりにストライク過ぎて話しかけられた瞬間に過剰反応してしまった。
「失礼ですがあなたは……?」
そんな咲季へ怪訝そうに、杏。
咲季は一瞬固まり、「お前は秋春とどういう関係だ」と問われた事に気付いて口を開いた。
「あ、えと、いも…………、未来の嫁、咲季でございます」
そしてしょうもない見栄を張った。
秋春を訪ねてきた美女という咲季的危険因子に対する防衛反応である。
「…………恋人、ということでしょうか」
「ええまあ、俗世の言葉で
自分で言ってて悦に浸っていた。
今は曖昧になっている仮交際だがしかし、交際している事には変わりないという拡大解釈で放ったグレーゾーンの嘘。
普段の咲季を知っていれば様子がおかしいと分かり嘘が露見するだろうが、杏には知る由もなく「そうだったんですね」と何やら考え込んだ様子で信じているようだった。
「まあもっと俗に言うなら、かのぴ。もしくはスウィートハニーでございますね。あきはる君……のっ!」
無意味に髪をふぁさっとさせる。
杏はその奇天烈な言動には特に感じるものは無いのか、静かに咲季を見据えているだけであった。
さしもの咲季もあまりに冷静な璃夢に戸惑い、口を
「いつからお付き合いを?」
「え……えっと…………、数カ月前です」
「ふぅん…………」
「な、何か?」
「いえ、別に」
「う、嘘じゃないですよ?電車の中で見境なくイチャついてみんなの敵意を二人占めしちゃうくらいラブラブですからっ!」
「…………」
高らかに嘘八百を叫んだ瞬間、なぜだか分からないが杏の目から光が消えた気がした。
恐怖を感じて及び腰になった咲季を静かに見つめたまま、杏は「ところで」と話を切り出す。
「本題なのですが、最近片桐が音信不通になってしまったんですけど何か知りませんか?」
音信不通。
その言葉を聞いて真っ先に思いついたのは、両親の横暴で秋春のスマートフォンが取り上げられた件。
内心苦い思いや悔みが去来するのを感じながら、しかし正直に本当の事を話すわけにもいかず、
「それはですね、色々あってスマホ変わってデータが飛んだみたいなのでそのせいだと思いますよ」
「データが飛んだ?」
「はい。データ移行の時にミスしたみたいで。だから何か事故にあったとかじゃ無いので安心してください」
どうやら杏は兄の身に何かあったのかと身を案じてわざわざやって来たらしい。
秋春のためにそこまでする杏に咲季は最大級の警戒心を抱きつつも、安心させるために笑顔で答えた。が、
「…………………………」
「…………………………ん? 」
杏は仏頂面。
というかさっきからどんどん機嫌が悪くなっている気がした。
「あの」
氷のように凍てついた声が咲季に向けられる。
「は、はい?」
「勘違いしているようなので断っておきますが、わたしは彼を心配してやって来たわけではありません」
「え、そうなんですか?」
「ええ、わたしとの約束を反故にした愚か者に鉄槌を下しにきたのです」
えらいこと言い出した。
よほど大切な約束なのだろう。ほとばしる怒りが底冷えして空気を凍らせているかのように感じた。何をやらかしてんだと兄に少し冷ややかな感情を抱きつつ、咲季は言葉を返す。
「約束ですかぁ……えっとぉ、何か伝えておく事があるなら私から伝えておきますけどどういたしましょー……?」
「いえ結構です。自分で伝えますので」
きっぱりと言い放った杏は最後、一気にお茶を飲み干して立ち上がった。
「お茶ごちそうさまでした。お話してくださりありがとうございます」
頭を下げると、ポケットからスマートフォンを取り出して何かを入力し、咲季へ見せる。
画面にはメモアプリに書かれた電話番号。
「これわたしの電話番号です。あの愚か者と会えたら電話をしろと伝えておいてください。写真お願いします」
「ほ、ほぉ」
言われるがままに電話番号の写真を撮る。
杏はそれを確認すると「では」とだけ言って玄関へ。外へ出て一つ頭を下げると堂々とした足取りで去っていった。
玄関まで見送った咲季は呆然と玄関に立ち尽くす。
「なんだったのあの人?」
最初は友好的だったのに途中から不穏な空気を醸し出し、不穏な言葉を残してすぐに去った。
秋春の知り合いとなると辻堂のせいで嫌なイメージがまとわりつく。が、話した感じは悪い人では無かったと咲季は評価した。
しかし別の意味ではかなり警戒すべき人物だと気を引き締める。
「変な人だったけど、声めっちゃ可愛かったな。それに美人で長身」
昔のバイト先の同僚と言っていたか。となるとメイド姿で接客をしていたんだろうか。想像がつかないが、それはそれとしてかなり人気だったに違いない。まさかあんな伏兵が居たとは。
咲季はここで改めて恐怖を抱いた。
恋愛のレの字もないと思っていたウチの兄の周り、女の子多くない? と。
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