fragment6 結愛の章(7)


 停学になったアキ君へ渡す学校のプリントは私が届ける事になった。

 アキ君のクラス……と言うよりはこの学校の誰もがその役割を拒否していたから、私が直接アキ君の担任の先生へと申し出たのだ。

 家が近所なのだと言ったらすぐに納得して私へプリントを渡してくれた。


 毎日アキ君の家に通った。

 アキ君のお母さんや妹の咲季ちゃんが出てくる事がほとんどだったけど、時々アキ君が出てきてくれて、その度に本当は何があったのか聞いた。

 けれどアキ君は死んだような暗い目をして俯いているままで、何も話してはくれなかった。


 どうして?なんで隠すの?

 これじゃ私は復讐も出来ない。

 霞ちゃんの友達だって言えない。

 だから本当の事を話してよ。

 もしかして、本当にアキ君が霞ちゃんを?


「……そんなわけ無い」


 湧いてくる疑念を振り払うように自分に言い聞かせながら、私はアキ君へ会いに行った。

 だけど結局何も分からないまま二週間が過ぎて、アキ君の停学は解けた。



 そこまで時間が経つと、霞ちゃんやアキ君の件を話す人はだいぶ少なくなっていた。


 そう。まるで何も無かったみたいに。


 私もそんな周囲の人達と一緒に日常へ埋没まいぼつしていった。


 何事も無かったように皆と過ごして、勉強会をしたり、カラオケに行ったり、映画を見に行ったり。


 それがどれだけ酷い事か分かっているのに、止められなかった。

 皆の理想でいなければいけない。皆の期待に応えなきゃいけない。

 悲しくて仕方無いのに、笑った。



 頭がおかしくなっていった。




 # # #




 今日はこの後すぐ、皆とボウリングする予定だ。


「………………………」


 放課後の学校。人気の無い廊下の隅の手洗い場。遠くで聞こえる喧騒。

 水が勢い良く流れる音だけが辺りに響いている。


「………………………」


 ボウリングの後はカラオケ。

 ミホちゃんがアキヤマくんに告白するために企画された。良いタイミングで二人っきりにして、場を整えてあげるのだと皆で盛り上がっていた。


 ……気持ち悪い。


「――――っ」


 石鹸で手を擦り、洗う。


「――――っ、――――っ!」


 丹念に洗って、また洗う。もっと隅々まで洗う。

 洗っても、洗っても、まだ手を擦り続ける。


「ぐっ………」


 手が段々と赤くなっていく。

 血が滲む。

 ジクジクと痛みが広がった。その上から石鹸を擦りつけ、洗う。

 薄い赤が混じった水が排水口へと流れていった。石鹸の擦りつけた部分が赤く染まる。


 ……まだ足りない。


 だってまだ汚い。こんなにも汚い。

 もっと洗わないと汚れは落ちない。


 綺麗になりたい。

 アキ君みたいに、鮮烈に輝いていたい。霞ちゃんみたいに清らかでいたい。

 そうなれればきっと、この腐った私の世界を壊して浄化出来るはずだから。


 だからもっと洗わなくちゃ。

 皮を削いで、中まで。


 赤くなった右の手のひらと左手を擦り合わせる度、ぞりぞりと音がして、石鹸がそこに入ると針で刺したような痛みが走る。

 思わず身体が震えてしまうけれど、我慢だ。

 穢れを落とすためには手だけじゃ駄目。全身を削って綺麗にしないと。手を止めたりして時間なんてかけてられない。


 ぞり。


 ぞり。


 ぞり。


 ぞり。



「結愛姉ちゃん?」


 近くで声がした。

 目の前のものに夢中になって足音に気付かなかった。振り向く。


 数メートル先。

 今しがた想いを馳せていた男の子が立っていた。


「アキ君?」


 けれど少しいつもと様子が違った。普段上から三つくらいまで外してあるワイシャツのボタンは全部つけられて優等生みたいだ。

 他人を寄せ付けない鋭い目つきも今はすっかりと力を失っていた。

 視線が重なる。なんだか抜け殻みたい。


 窓の外で鳴くアブラゼミの声が生温い風と一緒に流れていく。

 そういえば今は夏なんだっけ。


「っ、それっ、どうしたんだよ!?」


 アキ君が慌てた様子で私の左腕を見ていた。

 釣られて私も見てみると、


「……あら」


 肘から下。不均一に擦り切れた皮膚。

 水と血の混じった薄赤の筋がいくつも指先へ向かって垂れていて、床へ雨漏りのように落ちていた。


「大丈夫か!?どこかでぶつけたのか?」


 私の手を見つめて悲痛そうに顔を歪めるアキ君。

 それがとても勿体無いと思って、涙が流れた。


 #



 アキ君に無理やり保健室へ連れて行かれ、まだ残っていた保健の先生に包帯を巻いてもらい、今は私のクラスの三年一組に二人きり。落ち着いて話を出来る場所で一番近かったのがここだった。

 校舎の一階の奥にあるクラスで、少し薄暗いのが特徴。今は放課後で誰も残っていなかったから余計にそう感じる。

 まだ夕陽になってない、熱量を持った日差しが空調の切れた室内へ射して蒸し風呂みたいな暑さだったけれど、自然と汗は出てこなかった。血を少し出したからかな、むしろ心地良いくらい。

 私はいつもの自分の席――廊下側の後ろから2番目だ――に座って、アキ君はその隣に座った。

 それを確認してから私は口を開いた。


「ごめんね、先生に誤解されちゃって」


 私の言葉にアキ君は居心地悪そうに、


「そんなのどうでもいいよ。慣れてるし」


 頬を掻いてぶっきらぼうに言った。

 保健室に連れて行かれた時、私は右手を掴まれながら泣いていたから、アキ君が何かしたのだと保健室の先生に疑われてしまった。

 誤解はちゃんと解いたけれど、あんまり納得しきれていない様子だったな。

 それだけアキ君はこの学校で悪者なんだ。

 霞ちゃんを虐めて自殺させ、同級生を殺そうとした危険人物。

 私なんかよりずうっと優しい子なのに。


「それよりもさ……、何かあったの?」


 躊躇いがちに、アキ君。


「どうして?」

「俺を見て泣いてたから、俺のせいで何かあったのかなって思ったんだ。それにその傷」


 まさか。

 首を振って否定した。


「じゃあ、どうしたんだよ。結愛姉ちゃんが泣いてる姿なんて初めて見たぞ」

「それは…………」


 アキ君に優しさを向けられたのが嬉しくて、けれどそれがあまりに眩しくて、勿体無くて、自然と出てしまった。

 そんな事を言っても納得されないだろう。私の心の内は今、煩雑はんざつとしすぎていて自分でも不明瞭だ。

 だから誤魔化すしかない。適当なでまかせが口から流れるように出た。


「知り合いの子とちょっと喧嘩したの。それを思い出しちゃって」


 照れ隠しに髪を弄っている、苦笑い。

 何かを誤魔化すのは何度もしてきたからお手の物だ。


「結愛姉ちゃんでも喧嘩とかするんだ」

「それくらいするよ」

「イメージ無いけどな」

「アキ君とはよくしていたじゃない。バスケットの1on1でどっちが勝ったとか」

「あれはじゃれ合いだよ」


 力無い苦笑。

 久し振りにアキ君の笑顔を見れたけれど、なんだか痛ましい。

 原因は分かってる。


「じゃあ、今回の喧嘩は本気だったの?」


 アキ君が停学になった原因である暴力事件の事を指しているのは彼もすぐに気付いたようで、


「まさかそっちに話題が急転換するなんてな……」

「意地悪な質問だった?」


 アキ君はそっぽを向いたまま答えてくれない。機嫌が悪いって感じではないけど、何も話してはくれないんだろうなって雰囲気。


「アキ君は何の理由も無く人を傷つけたりしない。だから何か許せない事があったんだって思う。けれど、どうしてそれを話してくれないの?」


 当然の疑問だった。

 多分アキ君は今回の件で両親にも突き放されている。今までならこういう時は私に愚痴を言ったりしてくれていた。それなのに頑なに何も話してくれない。


「俺を買い被り過ぎだよ。噂の通りだから」

「女の子にとても酷い事をして、それを問い詰めた男の子を殴った?」


 わざと事務的に、追い詰めるように言う。


「…………ああ」


 苦虫を噛んだみたいに眉を寄せて目を逸らす。明らかに違うのだと分かる反応。アキ君は分かりやすい。


「嘘だよ。アキ君はとっても優しい子だもの」

「だから買い被り過ぎだって。周りの奴らの評価の通りの屑なんだよ。だから俺の事なんて気にしなくて良い」

「気にする。だって私は……」


 アキ君の顔を優しく両手で掴んで、顔を私に向けさせる。視線が合った。

 唯一私が仮面を外して話せる相手。

 霞ちゃんと同じ、家族よりもクラスの皆よりも大切な存在。

 乱暴だけど優しくて、口が悪いけれど寂しがり屋で、鮮烈で輝いている。

 そんなあなたが私は、


「大好きなの。アキ君が好き」


 身を乗り出して、私はアキ君を見つめた。瞳の中に反射した私が映っている。すがるような目。実際縋っているのだ。

 本当の事を話して欲しい。

 話してくれないと誰に復讐すればいいか分からないから。


「だからお願い。私、アキ君をもっと知りたいの」


 ゆっくりと、アキ君に抱きついた。

 安心してもらえるように背中に手を回して、段々と強く抱き寄せる。

 心を解いて、本当の事を言って。


「結愛、姉ちゃん?」


 戸惑いながらも、アキ君の声が安らいでいくのが分かった。

 最初宙を彷徨さまよっていた手は私の肩に。

 そう、それでいいの。最初からこうすれば良かった。誰かの体温って安心するものね。それが赤の他人だったら拒否感があるけれど、好意を持ってる相手だったらとても効果がある。。心の強ばりを解けばおのずと口は開く。


 さあ早く本当の事を言って。

 誰が霞ちゃんを追い詰めたのか言って。

 復讐しなければいけないの。私が人間に戻るために、早く!


「あ、れ……」


 ふと、我に返った。


 ――何をしているの?


 問いかけは自分へ向けてだった。まるで二重人格にでもなったみたいに、ついさっきまでの自分の行動が理解出来ない。


 恐ろしくなって、腕に込めていた力を解いた。


「いや、そんな……また私……」


 冷水を浴びせられたかのように茹だった思考が落ち着いていく。

 そして自分のした行為に気付いて、落胆した。


 私は打算でアキ君に抱きついて、アキ君からの好意を利用して情報を聞き出そうとした。

 それがさも当然かのように。

 大好きな人の筈なのに、偽物の気持ちをもって、アキ君の心を土足で踏み荒らした。


 条件反射の思考。身体に染み付いてしまっている処世術。けれど確かに私の意志が介在している。

 また私は大切な人を貶めた。

 もう心の根まで腐りきっている。早くどうにかしないといけない。


「結愛姉ちゃん、もういいよ」


 固まって動かない私の身体を、アキ君がゆっくりと引き離した。

 私を見る目はとても固い意志を感じる。同時に感じるのは諦め。

 何かに抗うような荒々しさが無い、なぎ


「結愛姉ちゃんは俺の憧れなんだ。何でも出来て、周りに気を配って上手く立ち回れて、皆から慕われて」


 憧れ?

 逆だ。私がアキ君に憧れてるのに、何でアキ君が私に憧れるの?どうして褒めるの?

 そんなの駄目だ。アキ君に今の私を褒められるのだけは、看過できない。


「俺に出来ない事をすんなりやっててさ。本当にすげぇなって思ってる。だから結愛姉ちゃんは俺と仲良くしたりとかしちゃ駄目なんだよ。一緒にいたりしちゃいけないし、もし俺を庇ったりでもすれば変な噂が立つ。色んなものを失うかもしれない。だから……」

「やめて!」


 立ち上がった。

 勢いづいた椅子が後ろに倒れて大きく音を鳴らし、無人の教室の空気を揺らした。


 叫んだのは、激しい拒否反応から。

 立ち上がったのは、失望したくなかったから。


「周りに気を配る?上手く立ち回る?そんなのの何が良いの?全然良くない」


 アキ君を睨みつけた。

 高ぶった感情が沸騰していた。


「私に憧れなんて抱かないで。こんな最低な私を認めないで。褒めないで」


 あなたに認められてしまったら、私は甘えてしまう。最低なままで良いのだと、人間に戻れなくなる。打算だらけで悪魔のような人間のまま生き続ける事になる。霞ちゃんやアキ君をもっと貶めてしまう。そんなの許されない。



 ――――そうだ。いっそ全部壊してしまえばいい。



 私の中で何かが囁いた。


 アキ君と同じように、激情を爆発させるのだ。

 今まで積み上げた信頼、信用全てを破壊する。守ろうとするものを全部失えば、もう周囲の反応なんて気にしなくていいんだから。

 今なら出来る気がした。アキ君が一緒なら怖くない。皆から爪弾きにされても、アキ君といれるなら……


 ちょうどここが私の教室で良かった。

 アキ君を視界から外し、黒板の方へ歩く。

 歩みは軽い。


 黒板の前まで歩き、教卓に両手をかけた。


 ふと顔を上げるとアキ君が怪訝そうに私を見ている。何も分かってないって顔。

 なんだか可笑しくて、自然と口が歪んでしまう。


 教卓を投げ倒した。


 ガシャンと大きな音を立てて前の方の机が一緒に倒れる。ドミノみたい。


 心臓が跳ねた。

 感じた事の無い高揚感。

 包帯で巻かれた左腕から滲む痛みさえ心地いい。


「アキ君」


 名前を呼んで見つめる。アキ君は唖然として座っていた。

 見つめながら黒板の壁から順に、貼ってあるポスターや掲示物を破き、地面へ放る。

 破いた紙には『思い遣り』がどうのと書かれていた。笑える。


「ほら、違うでしょ?」


 ロッカーの上に置いてある花瓶を殴り飛ばす。机にぶつかり、ガラスが割れて中の水が周囲に飛び散った。


「お、おい……!」

「私はこんなにも最低なの。あなたが言うような出来た人間じゃない。自分の事しか考えられない矮小な人間」


 仲が良いと男子生徒の机を蹴り飛ばす。

 いつも一緒にお昼を食べてる女子生徒の机を乱暴に引き倒す。


「ねえ、だからこうすればやり直せるかな。生き方を変えられるかな。アキ君と一緒に居られるかな」


 目の前が霞んだ。

 力が入らない。膝から崩れ落ちた。

 どうしてだろう、さっきから感情が抑えられない。いつもなら簡単に隠して笑えるはずなのに、想いが溢れて頬を伝っていく。



「変わりたいよ……アキ君……」



 あなたみたいになりたい。なのに私は、どうして変われないの?教えて欲しかった。

 けれど自分でも分からないのにアキ君がそれを知っているはずも無い。

 そもそもアキ君は私がこうして暴れてしまった事も理解出来ないだろう。


「なに、やってんだよ……意味分かんねぇよ……」


 驚きと困惑と、心配。それらが入り混じった歪んだ顔。


 正常な反応だ。

 だからこそ悲しい。

 私とアキ君は大きく隔ててしまったのだと強く自覚した。


「そう、ね。私は、おかしくなったの。もうまともじゃない」


 けれど、これでいい。

 外の喧騒が大きくなっていく。

 大きな音を立てたから誰かしらが異変に気づいたんだろう。こちらに向かう足音が迫っていた。

 これで私は皆から見放される。解放されるんだ。

 やり遂げた。


「な、何よこれ!?」


 教室の前の引き戸を開けて入ってきたのは担任の先生だった。天然パーマの中年の女性。

 私は立ち上がった。

 清々しい思いだ。後はもう、言葉にするだけだ。「私がやりました」って、堂々と、


「せんせ……」


 言いかけた瞬間、後ろでアキ君が床を鳴らす音がした。


 そして――――。


 轟音。


 金属が激しくぶつかったような激しい音がした。先生はビクリと肩を跳ねさせて私の後方を見て、


「あ、あなた……っ!なにやってるの!」

「あぁ?」


 返す声は礼儀を欠いたぶっきらぼうなもの。

 私も背後を見た。

 机がさっき以上に倒れている。すぐにアキ君がやったのだと分かった。


 まさか。

 青褪める。


「なんだよ。文句あんの?」

「どうしてこんな事……っ!」


 アキ君は先生を睨めつけた。ドラマさながらの不良然とした態度で。


 駄目だよ。

 やめて。

 だってそんな事したら、


「ストレス解消だよ。スッキリした」



 私は解放されない。




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