fragment6 結愛の章(6)


 横から殴られたような衝撃が走った。

 だるような熱気に包まれた季節。

 いつものように変わり映えしない灰色の景色を眺めながら教室へ入った時だった。


 ――――菊池霞が――。


 どこからともなく聞こえてきた言葉。


 自分の席へ移動しようと踏み出した脚が止まる。冷房で冷えた教室の空気が瞬間的に全身へ回り、身体の芯までをも凍えさせたようだった。

 どういう事だろう。言葉は聞こえたのに意味を咀嚼する事が出来ない。


 霞ちゃんの話?


 かろうじてそれだけが頭の中に入ってきた。


「結愛!聞いた?スクープだよ大スクープ!」

「…………スクー、プ?」


 三年生になってから話すようになったミオちゃんが入り口でぼんやりとしている私に気付いたようで、興奮した様子で飛び付いてきた。


「菊池霞って子!去年まで同じ図書委員だったでしょ結愛!」

「え、えっと、そうね?」


 三年生になって霞ちゃんは図書委員をやめて美化委員になった。

 それはきっと虐めの一環で……


「その子、虐めが原因で自殺したんだって!」


「……………………………………え?」



 世界が止まった。




 # #



 緊急職員会議が開かれるそうで一時間目は自習となった。

 その事実が霞ちゃんが自殺したという噂の信憑性を裏付けていた。

 まるで現実感が無いけれど、霞ちゃんのクラスに行っても霞ちゃんはどこにも居なくて、どのクラスにもどの教室にも居なくて、否応無しにそれが現実だと突き付けられてしまう。

 最近はクラスでのイベントや付き合いに忙殺されて会う機会が無くなっていた。そんな矢先の一報。


 虐めが原因で自殺。


 いずれはこうなるかもしれないと分かっていた。

 分かっていて私は何もしなかった。心のどこかで「まさか」と高を括っていたのだろう。

 最低だ。


 私が虐めを止めていれば何か変わっただろうか。

 そうすれば霞ちゃんは助かったのかな。


 思考が止めどなく洪水のように頭を巡っていく。

 考えても意味が無いと分かっていても、頭が言う事を聞かない。


 だから私は落ち着かない雰囲気の教室の中黙々と数学の問題集を解いていた。何かして気を紛らわせないと気がおかしくなりそうだったから。


「菊池……だっけ?自殺したの昨日の放課後らしいよ!」

「え〜?なら普通今日休みじゃね?」


 そうしていると数人のクラスメイト達の会話が耳を過ぎていった。

 何気ない会話。

 それが無性に腹が立って仕方が無い。静かにして欲しい。


「授業進んで無いからじゃん?数学とか社会やばいって言われてたし」

「人の命より勉強かー!それが教師のすることか……って、赤坂さん?どうかした?」

「そんなに見つめられると照れちゃうなーって」


 いつの間にか、私は彼らを凝視していたみたいだ。


「……ごめんなさい、何でもないわ」


 クラスメイトに笑いかけて誤魔化す。

 怒っているのに、笑った。

 それがとても気分が悪くて、頭がくらくらした。



 # #


 霞ちゃんの家族とはちょっとだけ面識があった。

 二年生の春に霞ちゃんに紹介してもらったから。お母さんと弟の雄仁ゆうじん君。二人とも私が霞ちゃんの友達だって知った時は自分の事のように喜んでいた。霞ちゃんの家族なんだなぁって妙に感動したっけ。


 そんな人達が今は写真の前で泣いている。

 霞ちゃんが死んで数日後、古びたアパートの一室。

 外は晴れているはずなのに部屋の中は影が落ちたように暗かった。

 ほこりが溜まった床からは寂寞とした虚しさを感じる。


「お葬式も挙げられなくてごめんなさい……!」


 家の前まで来ると、霞ちゃんのお母さんは私を家に迎え入れて何度も謝っていた。

 多分私と霞ちゃんの両方に謝っていたんだろう。


 リビングの棚に飾られていたのは霞ちゃんと私がゲームセンターに行った時の写真。去年私が現像して霞ちゃんにプレゼントした。

 その中の霞ちゃんはどこかぎこちなく笑っている。

 仏壇の代わりなのだろう。目を閉じて手を合わせた。


 私は知っている。この時の楽しい思い出を。一緒にホッケーしたり、シューティングゲームをしたり、UFOキャッチャーをしたり、最後に写真を撮ったり。

「写真は慣れてない」なんてお年寄りみたいな事を言っていたな。


 笑えてた。あの時は、確かに。

 ……それなのに。


「もう見れないんだ」


 目頭が熱くなる。

 立っていられなくて、崩れ落ちた。

 霞ちゃんは死んでしまった。


 私はもう謝る事さえ出来ない。




 # #



 また数日経って、大きな事件が起きた。

 アキ君が一人の男の子に暴力をふるって、その子が病院に運ばれたそうだ。

 何か理由があったのだと思う。アキ君が何の理由も無しに人を傷付けるはずないのだから。

 だけど周囲はそんな事知るわけもなくて、


「片桐ってやっぱりキチガイだな!やべぇだろ病院送りとかよ!」

「イカれてるよ。悪魔だ悪魔。人間じゃねぇって」


 事件が起きた翌日の朝。話題はアキ君の事で持ちきりだった。

 私は鞄を机に置きつつ、嫌でも聞こえてしまう話し声を聞いた。


「ていうかなんで殴ったワケ?女取られたとか?」

「知らね。むしゃくしゃしてたんじゃね?」

「はは、それで病院送りは最悪過ぎるわ」


 前の席の男の子達は楽しそうに憶測を語り合っていた。

 くだらない。少しはものを考えて喋ってよ。

 教科書を持つ手に力が入る。



「アタシ知ってるよ。なんで片桐君がその子殺そうとしたか」



 私は俯いていた顔を上げた。

 あまりにも突飛な言葉が聞こえたから。殺すだなんて冗談以外じゃ聞かない。


 男の子達の間に入ったのは噂好きのクラスメイト、ミユキちゃんだった。

 話に入っていく気力も無く、聞く耳を立てる。


「殺すって、まじ?」

「まじ。ほら、菊池さんの自殺あったでしょ。虐めで自殺したって事になってるじゃん?」

「うん」

「けど実際は違ったの。実はね、菊池さんは最近片桐君にめっちゃ絡まれてたらしくて」

「うぇっ、あいつ女子にも手上げたりしてんのかよ」

「手を上げてたっていうか、そこにはちょっとした事情があってね〜。後輩からの情報なんだけど……聞きたい?」

「なんだよ気になるじゃん、聞かせろって」

「実は菊池さん、援交?パパ活?してたみたいなんだよ!」

「えー!?マジで!?てかそんな可愛かったっけ!?」

「可愛く無くたって出来るでしょ。で、その援交をさせてたのが片桐君って話なんだよ!」

「お、分かった!菊池さんはそれが嫌になって自殺?」

「正解!で、それを先生に告発しようとした男の子がいて……ブチ切れて今回の騒動ってわけ!」

「うわー、片桐えっぐ……」

「将来は暴力団志望?」

「一択だろ!進路調査するまでもないな!」


 沸き起こる笑い。

 皆笑っている。話を聞いてる人も皆、笑顔。

 何を言っているんだろう。わけがわからないよ。アキ君は嫌がっている相手に何かを強要するなんて事しない。


「……結愛大丈夫?」

「え?」


 隣から声。

 声の方向へ顔を向ける。そこには二年生からの付き合いのクラスメイト、アオイちゃんが前屈みになって怪訝そうに私を見つめていた。


「ぼーっとしてるから。夜ふかしでもしたの?」

「う、うん。少し」


 目眩がして脂汗が滲んでいたけれど、平静を装った。今までの私の生き方が自然とそうさせた。


「それにしても凄いよね。援交とかウチには無理。フツーに引く」


 前の席で繰り広げられる会話を聞いていたのだろう。

 アオイちゃんは侮蔑の意を隠そうともしない。


 援助交際。

 霞ちゃんがやっていたなんて信じたくないけれど、同時に納得してしまう自分がいた。

 この二年ちょっとの間、家計が辛く無くなったなんて話は一回も聞いたことがない。

 なら霞ちゃんは自分を犠牲にしてでもお金を稼ごうとするかも知れない。いや、するだろう。そういう子だ。

 それがいけない事だと分かっていても、天秤は傾くはずだ。

 そういう所が素敵で、憧れだった。


「おいおい無理矢理やらされてたんだよ片桐に!同情とか無いわけあおいさーん?」


 前で喋っていた男の子の一人、カイダくんがアオイちゃんに絡んだ。

 アオイちゃんはそれに呆れたように目を眇めて、


「いきなり会話に入ってくんな甲斐田」


 しっしと手を振った。

 すると今度はカイダくんの隣のツツミくんがカイダくんを小突く。


「そうだぞ甲斐田。意外に乗り気だったりしてたかもしんねーだろ」

「私をもっと求めてッ!とか言っちゃって?」

「ぎゃはは!あの顔で言われたくねーセリフだわ!」


 教室中が笑いに包まれていた。

 いつの間にかカイダくん達の会話が注目を集めていたようだ。


「甲斐田!赤坂さん引いてっから黙れー」

「ツツミの言う通りよ。菊池だっけ?そんな体売るような馬鹿の話とかこっちは聞きたくないの。ね、結愛」


「…………」


「結愛?」


 ――初めての感覚だった。


 胸が焼けるように苦しい。吐き出してしまいそうなほどに気持ちが悪い。

 握った手に爪が食い込む。


 憎悪にも似た怒り。


 こんなにもドス黒い感情が心の内に渦巻いている。

 嫌悪感と怒りが入り混じったどろどろとしたモノが身体を燃やしているみたいだった。


 許せない。

 私の大好きな、綺麗な人達を貶めるな。

 知ったふうに二人を騙るな。


 限界だった。

 なら、言ってしまえばいい。

 この張りぼての世界を壊してやるんだ。

 言え。一言でいいのだから。「私の友達を悪くいわないで」って。

 そうしなければ私は――



「うん。そうね」



 誰が言った言葉なのか、自分でも分からなかった。

 周りの反応を見る。苦笑と共に「だよねー」と肯定する声が聞こえた。

 じゃあ今のは私が言ったのか。

 口を手で押さえた。


〝身体を売るような馬鹿女〟


 それを私は受け入れた上で同意した。してしまった。

 霞ちゃんやアキ君を庇わず周りの反応を危惧し、自分の保身を選んだ。


 思わず席を立った。


 視線が一気に集まる。


「どうしたの?」



「ちょっと、保健室に行ってくるね」


 返事なんて待たずに私は教室を飛び出した。



 # 




「―――ぅぇ、ぐ……ごほっ!ごほっ!」


 吐いた。

 誰もいないトイレの一室。

 便器の中に顔を近づけて、吐いても吐いてもまた吐き気が込み上げて来る。

 自分への嫌悪感に気が狂いそうだった。


 ――なんて事を言ってしまったのだろう。


「私は……なんて人間なの」


 自分の立場のために、友達を平気で貶めた。

 友達を貶められて怒っていたくせに、同じ事をした。

 友達が虐められても見て見ぬ振りして見捨てる。私を信じてくれていたのに。

 何度も、何度も、私は霞ちゃんを裏切った。

 そんなの友情じゃない。私はニセモノだ。ホントウが何も無い欺瞞だらけの、ウソまみれの穢れた人間。

 周りの評価だけを求める人間。それに囚われた浅ましい人間。

 まるで悪魔だ。


 どうしたら私は人間に戻れる?

 どうすれば私は霞ちゃんの友達だって言えるの?


 …………そうだ。

 私はまだ知らない。

 誰が霞ちゃんを死に追いやったのか。

 それを突き止めて犯人に復讐すれば、私は霞ちゃんの友達だって言えるかな。


 そういえば、さっきアキ君の名前が出ていたっけ。

 皆はアキ君が犯人だって言っていた。

 そんな事信じていないけれど、火のない所に煙は立たないとも言うし、もしかしたら何か知っているかもしれない。


「アキ君…………」


 大好きな幼馴染。

 その名前を口にしたら心が浄化されていくような気がした。




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