第三十四話 いつまで引きずってるの?
病院の二階、人通りの少ない奥に位置する、十二畳ほどで縦長の部屋。中心にテーブルが置かれただけのシンプルな造りの部屋は窓から入るわずかばかりの光で照らされていた。
閉めた窓の外から漏れる雨音を聞きながら、咲季は乳白色の壁に背をつけ立っていた。
秋春が目覚めた翌日の夕方の事である。
病院の面会室を使うのは久し振りだった。
大抵は大人数で面会者が訪ねてきた時に使うもので、咲季にはあまりそういう機会は無かったからだ。
だから今、面会室にいるのは特別な理由から。
母と会うため。
普段、咲季の母――
それは、目を逸したいから。咲季が余命を宣告されたという現実が、咲季を見る度に襲い掛かってくるからだ。
周りの人間の言葉と自分が感じた印象から予想した理由であるが、恐らく間違いではない。故に、咲季が明菜を呼び出すのは困難であった。
今はメッセージもたまにしか返してくれず、簡単にコミュニケーションが取れない母。今すぐ呼び出すためには、咲季からでなく別の誰かからのアプローチが必要だ。
だから咲季は結愛を頼った。咲季の両親から信頼を置かれている幼馴染を。
彼女は
外から微かに聞こえる雨音だけが辺りを満たしていた。
が、その静けさも長くは続かない。
がら、と、入り口の引き戸のドアが開いた。
――――来た。
咲季は戸の向こうからやって来た見慣れた顔を敵意をもって迎える。
「咲季……?」
部屋へ足を踏み入れた明菜は目を丸くして固まった。
憔悴。現れた明菜の姿は、その言葉が当てはまる。濃い
先日、咲季の「退院したい」という申し出に対して血相を変えて現れた時はこの
「さ、咲季?なんであなたがここに?結愛ちゃんは?」
心配そうに近づいて来る明菜。結愛がどういう文句で明菜をここまで呼び出したのか知らないが、そんな事はどうだってよかった。ただ黙って、静かな激情を胸の内で燃やすのみ。
何も喋ろうとしない咲季に、明菜は段々と怪訝そうな表情を浮かべた。
「咲季?」
自分へと伸ばされた手。
咲季はそれを
ビクリと震え、一歩後退る明菜。何が起こったのか分からないといった様子。
咲季の刺すような冷たい視線が射抜き、萎縮した。
「今まで、何してたの」
これまでの人生で出した事もない低い声。自分でも驚くくらいに冷えた声だった。
「なんであんな事したの」
沸騰した頭の中は今にも爆発しそうだった。なんとか平静を保っている。
「え?」
「なんでお兄ちゃんをあんなにしたのかって聞いてるの」
「ど、どうしたの?ちょっと様子が変よ?」
「今私の事はどうでもいい!お兄ちゃんの話をしてるの!」
怒りが声に乗った。
「なんであんなになるまで暴力振るったの?なんでよ、わけ分かんないよ!」
びくり、と明菜は肩を震わせた。
目を泳がせ、顔が段々と青褪める。どうやら「気にも留めて無かった」というわけではないらしい。
「だ、だって、だって……」
「〝だって〟……何?」
「あの子は、俊名さんとの子供じゃないもの……、あの男の、私を置いて逃げた、あいつの……」
俯いた明菜の顔。
過去に囚われ、それを引きずり続ける歪んだ顔。こうなってしまうと、明菜から吹き出る負の感情は止まらなかった。
「そうよ……!周りに迷惑ばかりかけて……咲季も、勝手に外に連れ出して……っ!」
段々と声が大きくなっていく。
「あの子が悪いんじゃない!全部全部あの子が酷い事を平気でするから悪いのよ!!もっともらしい事言って、咲季を貶めようとしてるあの子が!」
「そんな理由?」
明菜の咲季を想った必死の叫びはしかし、他でもない咲季にぴしゃりと一蹴された。
「それだけの理由で、お兄ちゃんをあんな目に遭わせたの?」
「それだけって……咲季、あなた殺されかけたのよ!?秋春はあなたを無理矢理連れ出して、病院にいなくちゃいけないあなたを……正気の沙汰じゃないわ!」
「違うよ。それは私が、」
「それに、あなた知ってるでしょ!?秋春のせいで私がどれだけ苦労したか!どれだけ謝ったか!ご近所にどんな目で見られたか!知ってるでしょ!?ねえ!?」
訴えかけ、しがみついてきた明菜。
咲季は強い力で振り払った。
勢い余って手が椅子にぶつかるが、痛みなんて感じない。
「それ、いつまで引きずってるの?」
「………!?」
明菜が見上げた先にあった顔。
明菜の知っている、天真爛漫で朗らかな顔じゃなかった。
凍ったような表情。
だが、その裏に荒れ狂わんばかりの激情を渦巻かせている。
それがひしひしと、痛いくらいに伝わってきて、
「子供みたいに喚いて、八つ当たりで自分の子供に暴力振るって、何がしたいの?」
「ち、違うわ、あんな子私の子じゃ……」
自分が叩かれたのだと、明菜が気づいた時には胸ぐらを掴まれていた。
「お母さんの子供だよ!」
「――――――っ!?」
目を見開いて明菜は固まった。
かつてここまで咲季が感情を発露させた事があっただろうか。怒りを言葉にのせた事があっただろうか。
明菜の知る限りは、初めてだった。
「少なくとも、お兄ちゃんは、そう思ってるんだよ……!」
迫った顔から落ちる涙。
頬を伝い、明菜の服に染みを作った。涙もいつ以来か。
衝撃で、荒れ狂っていた思考が引き戻される。
静寂の後、先に口を開いたのは明菜。
「……嘘よ」
「嘘じゃない!お兄ちゃん、お母さんに傷だらけにされても、恨み言なんて一言も言ってなかった!」
「え?」
「泣いてたよ!辛そうだった!」
「う、そ……」
信じられなかった。
そんな馬鹿な。と、頭を振る。
「お母さんと昔付き合ってた人がどんな人だったのかは知らない。けど、お兄ちゃんとその人は違うんだよ。それくらい分かってよ!」
「っ!」
だが、その必死の訴えは本物だった。
「親なら、子供に愛情をくれるくらい、してくれたっていいでしょ!!」
涙でぐちゃぐちゃにになった咲季の顔。
それを見て、ある光景が重なった。
一昨日の秋春。
必死になって明菜へ訴えかけていた、あの顔。
同じだった。
咲季のように真摯に、真っ直ぐに明菜の目を見ていた。
何度も、何度も明菜へ訴えかけていた。
嘘も打算も悪意も何も無く、ただ純粋に。
「どうして……」
どうしてだろう。明菜は、思う。
どうしてそんな風に感じてしまうのだろう。
秋春は明菜を捨てた〝あの男〟の子供なのだ。他人を虐めて殺してしまうような人間。咲季と同じ
それなのに……
「それは、真っ当に生きてきた子供にだけ許される主張だよ。咲季」
思っていた時、明菜の背後から声が聞こえた。
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