第三十話 衝撃
俺は家の門扉を開き、そこに立つ母さんへと歩み寄った。
静かだが明らかな怒りを感じる。だが、その割にはいつものようにすぐヒステリックにならない。そんな奇妙さが不安を駆り立てた。
「……どうしたんだよ」
買い物をしてきたのだろう。母さんの両側にはビニール袋が置かれていて、中に入った野菜や肉のパックが雨に晒されたままになっている。
それを気にした様子も無く静かに立っている姿は、やはり異様としか言いようがない。
肌にへばり付いた髪をそのままに、俺をじっと見ている目は血走っていて、息が詰まるほどの圧迫感があった。
「家……入らないの?」
「………………」
反応が無い。
戸惑いと恐怖が入り混じった不快感がじりじりとにじり寄ってくる。
再度呼びかけるが、やはり反応は無く。俺は気味悪く思いながらも「これ家に入れるよ」と二つのビニール袋を持って玄関をくぐった。
遅れて母さんがついてくる。
俺はすぐに靴下を脱いで洗面所に行き、適当なバスタオルを二つ取ってまた玄関へ。
「ほら、拭いて」
その内の一つを母さんの目の前に。
だがやはり、母さんはそれに反応を返す事は無かった。
「……母さん?」
戸惑いや恐怖よりも無視されているという苛立ちが勝って、俺は目を眇めた。
すると、やっと母さんの口が動いて、
「あなた、どこ行ってたの」
聞き慣れたフレーズ。機嫌が悪い時によく出る言葉。
俺はため息をついた。またいつものストレス発散か。
「どこって、別に。知り合いと遊びに行ってた」
どう言ったところでヒステリックになるのは避けられないと分かっていたので適当に言う。
しかし今日はいつもと同じとはならなかった。
「……私ね、いつも、いつも勇気が出ないの一人だと辛くて、
独白のような呟き。
会話を無視したそれに戸惑う。
「今日もね、病院の前までは行ったのよ。でも咲季の顔を見るのが怖くて、結局また家に帰って……」
俺の知らない、母さんの気持ちの吐露。そうだったのかと内心驚いた。だって母さんは病院に近づきすらせず避けていると思っていたから。
母さんなりに頑張って見舞いに行こうとしていた。
そんな事実に少し安堵を覚えたものの、同時に思い至った可能性に身体が強張る。
「それでね、お夕食の買い物に出てね、その帰りに、また病院に寄ったの。そうしたら、」
夕食を作ろうとするなんて久しぶりじゃないか。
普段なら言ってしまいそうなそんな皮肉も、今は口から出てこない。
ただ固まって母さんに、母さんの言葉に、意識を傾けるのみ。
「誰かの車から咲季と、秋春が出てきたの」
「っ」
息が、詰まった。
持っていたタオルが床に落ちる。
杞憂であって欲しいと願ったが、そう上手くはいかなかった。
冷や汗が背中を伝う。
今までも、咲季に頼まれて病院を抜け出して近所を散歩したりする事があったが、その時にいつも考えていた事があった。
もしこれが母さん達にバレたらどうなるだろうと。いつもの様子から考えるに、どうなってもおかしくない。
恐れを抱きながらも、咲季を楽しませる事に必死で、考えを先送りにしてしまっていた。
きっと大丈夫だと甘い幻想に縋って。
「私、見間違いかなって思って。だからあなたを待ってたの。友達、だったんでしょう?咲季に良く似たお友達。そうなのよね?だってそうじゃなきゃおかしいものね。咲季は入院してるのよ。外に出ちゃいけないし出させちゃいけない。ましてや遠出なんてどんな危険があるか分かったものじゃないもの。ね?」
普段の言動から、母さんは病院に近づいてすらいないと勝手に勘違いしていた。
退院の相談の時だって、咲季が退院したいと言い出した事に危機感を覚えてやむを得なく病院へ顔を出したのだと思っていたから、普段来る事なんてほとんど無いと高を括っていた。
まさか決定的な瞬間を見られたとは。
……けど、
「…………咲季を……」
深く息を吸って、吐き、小刻みに震える手を押さえつけた。
――これは、いずれ通らなければならなかった道だ。
気持ちを無理矢理に切り替える。強く、強くあれと心を叱咤し、母さんを真っ直ぐに見る。
むしろ良かったんだ。
言い訳のしようもないなら、もう真っ向からぶつかるしかないのだから。
「咲季を、退院させるべきだ」
……言った。
ぽかんと、怒りを忘れたかのように母さんは固まった。
何を言われたのか理解できない。そんな顔。水が床へと滴り落ちる音だけが周囲を満たす。
言ってしまった。だがそれでいい。
溢れる思いのまま、言葉を紡いだ。
「ごめん、嘘ついた。母さんが見たのは間違いなく咲季と俺だよ。遊園地に連れて行ってたんだ。あいつを少しでも楽しませたかったか、」
乾いた破裂音が鼓膜を揺らした。
「づっ……」
頬を叩かれたらしい。
熱を帯びた痛みが後に続いて広がる。
「自分が何したか分かってるの!?」
目の前には怒りを
抑えていたものが爆発したようだ。いつもよりも一層激しさを増したそれに気圧されそうになるのを堪え、一歩前に出る。
「隠してたのは、悪い事だって分かってる。けど、そうでもしなきゃ」
言い終わるより前、今度は反対側を叩かれた。
「咲季を無理矢理連れて行ったのね!なんて、なんてことするのッ!」
今度は横殴りの拳。
口の中が切れ、痛みと鉄の味が広がる。
「あの子の命をなんだと思ってるの!!」
更に続けて振り上げられた拳を、俺は力を込めて掴んだ。呪詛のこもった目を真っ向に受けながら、それでも視線を合わせて。
「大切に、決まってんだろ」
「嘘よ!大切なら、そんな酷い事できない!あの子が何したって言うの!?ねえ!!」
なおも殴りかかろうとする母さんのもう片方の腕も掴み、押さえ込む。
強く、強く力を込めた。
「半年だよ。あと半年しかないんだよ。だったらさ、ああやって閉じ込めるべきじゃないんだよ……!」
「言ってる意味が分からないわ!」
「分かれよ!咲季はな、思い出が欲しいって言ってたんだ!」
感情が溢れる。
早鐘を打つ心臓が
「俺が言えた立場じゃ無いのは分かってる!俺だって少しでも長く生きて欲しいから、今までずっと黙ってた!その方が良いって思ってた!けど、」
息切れする。
乾いた喉がつっかかって咳が出る。
それでも。
「それが家族がする事なのか!?あいつの望みを突っぱねてまですることなのか!?あんな狭い世界に閉じ込めて、死ぬまでそこに居ろって言うのかよ!」
生きるっていうのは、そういう事じゃない。
伝えるために声を張る。
「あいつはまだ元気で、色んな場所にだって行けるんだ!そう望んでるんだ!」
だから、
「もうやめにしようよ……!咲季の気持ちを汲んでやる時だろ。退院したいって、そう言ってただろ……!あいつの側で笑って、一緒に楽しい時間を共有して……、俺達はそういう事をするべきなんだよ!」
「……………………」
母さんの腕の力が弱まった。
同時に俺も握っていた手を離し、内に充満していた激情を抜くように息を深く吐いた。
「あいつが、最後の時を笑顔で迎えられるようにするのが、家族がすべき事だろ」
言った。全部。
今まで言わなかった事、言えなかった事。
どうして今まで言ってこなかったんだろう。
そう思うほど、心の中の靄が晴れている。
「………………………」
沈黙は数瞬。
母さんは顔を俯かせながら後ずさり、壁へ背をつけ、
「そ、う……、そう、ね」
呟いた。
次いで、ふらふらとおぼつかない足取りで玄関の扉の前へ。
そこに置いてあるビニール傘を手に取った。
「やっぱり、そうよね」
感情を発露させた反動なのか、正常に働かない頭。
母さんは何をしているんだろう。
そんな間の抜けた思考でただ目の前の光景を眺める。
だから、動けなかった。
振り上げられるそれ。
「がっ!」
衝撃。
床へ身体が転がる感覚。
何が起きたか、分からなかった。
「あなたが、咲季にそう言わせてるのね」
「え……」
ごっ!
と、鈍い音。頭に広がる酷い痛み。
見上げた視界には、傘を振り下ろした母さんの姿。
――そうか、俺は殴られてるのか。
混乱した意識の中、淡々と状況だけが情報として頭に入ってくる。だが、感情が追いついていかない。
勝手に、分かってくれたと思った。でも違った。
なぜ、どうして。そんな単純な疑問だけが浮かんでは消えていく。
「だから、退院したいだなんて言い出したのよ……」
「違……う、あいつは、自分の意志で」
「いつものあの子はそんなこと言わない!!」
ごっ!
脳が衝撃に揺れる。
思考が曖昧になる。
「なんで、どうしてッ!いつも、いつもッ!なんであんたはそうなのッ!いつもいつもいつもいつも!!」
何度も、何度も振り下ろされる凶器。
腕を、脚を、腹を、頭を。
「あ…が…っ!」
「周りに……、迷惑、かけてッ!人を不幸に、してッ!喜んでるんでしょ!」
息切れと共に動きを止めた母さんの、敵意で染まった目から涙が落ちた。
それはあの時、中学生の時に見た時のそれ。情けないと、俯いて涙を溢していた時と同じだった。
「違……俺は……咲季に、幸せになって……、ほしくて……」
「あんたの、せいで!どれだけ私が……周りから、白い目で見られたか、知らないでしょ!!」
もはや俺の声は届いてない。
きっと母さんは今、あの日を繰り返している。
「どれだけ謝ったか、苦労したか、分からないでしょ!」
俺の脳裏にも、あの時の記憶がフラッシュバックした。
憂さ晴らしのために周りへ噛み付く馬鹿な自分。そのせいで誰にも信じてもらえなくなって、誰もが俺から目を逸して。そして菊池は――
「あの時虐めた子みたいに、咲季も殺すつもり!?」
「―――――――――」
その言葉が、胸を貫いた。
息ができなくなるほど、苦しい。
違う。
言いたいけど、否定できない。俺があの時辻堂を止めていれば、菊池は死なずに済んだかもしれない。
そして何より、母さんがずっとそう思っていた事が、事実として突きつけられた事が、胸を焼いた。
「なんであんたじゃなくて咲季なのよ!」
中学以来、俺は喧嘩をやめて、無い頭を絞って勉強して、公立の高校へ入って、そこでも頑張って、そこそこ良い大学へも進学した。
母さんも父さんも、俺に暖かい言葉を投げてくれる事は無かったけど、少しは見直してくれてるんじゃないかと思っていた。……思っていたかった。
「なんで生きてるのよ!!」
けど、そんなわけ無くて。
俺は既に取り返しのつかない過ちを犯してしまっていて。
ごっ!
また頭に振り下ろされる何か。
今度はなんだか、さっきよりもずっと重い気がする。
ノイズがかった世界で、ぼんやりと考える。
ああ、やっぱり俺は、弱い。
昔からずっと、俺の中の根本にあるものは変わっていないんだ。
母さんが俺を「愛せない」と言ったあの日から。
「咲季を巻き込まないでよ!」
俺を見て欲しい。
「あんたなんて要らない!」
認めて欲しい。
「必要無い!」
笑顔を向けて欲しい。
「消えてよッ!!」
愛して欲しい。
「か、あ……さ」
「母さんって呼ばないで!!」
けどやっぱり、こんな自分勝手な願いが叶うわけないんだ。
だって俺は、
「あんたなんか、私の子じゃない!!」
母さん達の家族なんかじゃないから。
暗転。
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