第二十九話 凍った
「今日は本当にありがとうございました」
遊園地のやたら広い駐車場の一角に停められた櫻井さんの車――水色の軽自動車だ――の前で俺は櫻井さんへ頭を下げた。
辺りは夕日が沈み、藍色がかった景色が広がっている。帰ろうと考えている客も多いのか続々と車を発進させていた。
「いいってことよ少年!若人は大人なんぞ気にせず青春しなさい!」
そんな少し寂しげな雰囲気とは対照的に櫻井さんは嬉しそうに俺の隣に来て背中をバシバシと叩いた。ここだけ太陽が降り注いでるような錯覚を起こしそうだ。
まあそれはいいんだけど咲季をおぶってきて背中結構汗かいてるからやめてほしい。
視線を、ドアが開いたままの車の後部座席に遣る。
「………………………ふへ……」
そこには横になって無防備な寝顔を晒している咲季が。
「こいつまじで寝やがって……」
「ま、いいじゃない。それだけはしゃいでたって事でしょ?」
「だからって門から駐車場まで運ぶことになるとは思わなかったです」
観覧車が終わった後、咲季は少しの間ふらふらした足取りで俺について来ていたが、途中で「ムリ」とか言い出したので肩を貸した。
しかし出口を抜けた瞬間に「ねる」と言って完全に脱力。やむを得ず、事前にもう遊園地から出ると連絡しておいた櫻井さんが待つ駐車場まで咲季を背負って行く羽目になったのだ。出口から車までは中々に遠かった。かなり汗だくである。
抜けていく風も湿り気を含んでいて気持ちが良いとは言い難い。日がほぼ沈んでいるのが唯一の救いか。
「ふふふ」
額に浮かんだ汗を手で拭い、顔を顰めたところでからかうような櫻井さんの顔が目についた。
「何笑ってるんですか」
「ツンデレだねぇ」
「はい?」
「普通恋人が疲れてるからっておぶっていく男はあまりいないと思うよ?」
「え、そこまで不思議でもないと思いますけど」
まあ、世の恋人の常識なんて知らないが。
「照れない照れない!」
バシバシ!
背中をぶっ叩かれた。
なんでこの人はこんなにも嬉しそうなんだろう。
「本当、片桐君がお兄ちゃんで良かったねこの子は」
そんな真っ直ぐに見ないでくれ。俺は褒められた人間では決して無い。ただの勘違いだ。
ふと、櫻井さんが後部座席のドアを閉める。するとその音に意識が浮上しかけたのか、まだ開けたままの前部座席のドアから咲季の声が聞こえた。
「きょー、は……あ……がと、ねぇ」
呟きに近いその寝言は妙にはっきりと聞こえた。思わず櫻井さんと目を合わせてしまう。
「……だってさ」
何故か櫻井さんからそらみろと言わんばかりの視線を頂戴し、困惑混じりの気恥ずかしさと共に視線を逸らした。
それを見た櫻井さんはニカっと笑い、下ろした髪を背中でたなびかせ、運転席に乗り込む。その姿が凄く“らしく”て思わず目で追ってしまった。
「ん?どうしたの?」
「いえ、なんでも。咲季をよろしくお願いします」
「いやいや、お願いしますじゃないでしょ。何言ってんのキミも乗りなさいよ」
呆れた顔で助手席を指差す櫻井さん
「あー、そっか、そうですね」
そうだった。行きは「待ち合わせもデートの内」という謎理論によって別々に来ていたが帰りまでそうする必要はないんだ。
なんだか頭が回ってないな。
「疲れてる?」
「そうかもしれないです」
「じゃ、病院着くまで寝てなさい」
俺は苦笑し、促されるまま車に乗った。
#
本当に疲れていたらしく、車の中で俺は爆睡してしまった。櫻井さんの運転が上手かったというのもあるかも知れない。
起きたのは病院の駐車場に到着して櫻井さんに声をかけられた時だった。
外の景色は既にかなり暗く、街灯の少なさも相まってか視界が悪い。車内の光だけが煌々と輝いていて世界から隔絶されているようだった。
「気持ちよさそーに寝てたねぇ」
車のエンジンをオフにしつつ、櫻井さん。
「なんか、ほんとすみません」
「何どうでもいい事で謝ってんの。いいから咲季ちゃん起こしなさい」
まだぼぅ、とする頭を振って意識にかかったモヤを振り払い、言われた通り後部座席の咲季へ向けて体を乗り出して声をかけた。
が、身じろぎをするだけで全く起きる気配がないので一旦外に出て後部座席のドアを開け、咲季の肩を揺すった。
「咲季ー、起きろー」
何度か強く揺すったところで咲季の目が薄く開いた。とろんと蕩けたような目で俺に視線を向ける。
「あえ……おにーちゃんがいる……」
「そーだよお兄ちゃんだよ。もう病院着いたぞ、ほら」
背後の病院を親指で示すも、咲季の視線は俺に固定されたままで、
「また私のベッドに……もぐり、こんだの?えへへ……えっち」
どうやらまだ頭の認知機能が正常ではないらしい。頭を叩いたら直るかな。
思っていると、いつの間にか背後にいた櫻井さんが大袈裟なジェスチャーで「やれやれ」と呆れていた。
「またって、いつも何やってんだかねぇこの兄妹は」
「特に何もしてませんが?」
「え、まだ何もしてないの?それ男としてどうなん?」
「あの、櫻井さんは一体俺にどうして欲しいんですか」
「狼になりなさい!」
いい顔でサムズアップすんな。てか発想が咲季と同じかよこの人。
「うー、ねむー」
そんなやり取りをしていると咲季が大型動物のようにのっそりと上半身を起こした。
大きな欠伸をしているあたり、半分寝てるんだろうなというのはすぐ分かった。なので両頬を掴んでこねくり回す。
「ほら、さっさと病室戻るぞ。病院抜け出したの櫻井さんと吉田先生の独断なんだからな。他の人にバレたら二人に迷惑がかかるんだ」
「ふぁい」
ホントに分かってんのかこいつ?
しかしまだ出入りする人も多かったからか、俺の心配は杞憂に終わり、咲季の顔を俺の体で隠しながらも、怪しまれる事無く無事に病室へ戻る事ができた。
咲季は一直線にベッドに向かい、バッグを下ろして座り込む。俺と櫻井さんもなんとなしにそれに続いた。
するとまだ脳がバグっているのか咲季が櫻井さんの目の前で俺に向かって手を広げ、
「おにーちゃん、おやすみのちゅー」
「いつの間にかお兄ちゃん呼びに戻ってるんだな」
「それはほら、デートのときは特別感というか雰囲気出したく……じゃなくて話逸らすなちゅーしなさいちゅー!」
「馬鹿か寝ろ」
あえてスルーしてやったのに騒ぎ出したアホにデコピンをかましてやった。
「ま、咲季ちゃんはこれからシャワーを浴びるんだけどね。ということで男は退散なさい」
櫻井さんが冗談めかしてシッシと手を振る。
酷い言い草だが確かにさっさと帰った方がいいだろう。決して良いことをしているわけではないからな。
「どうだ見たいか!」
また騒ぎ出したアホにデコピンをかましてやった。
「いってぇ!お兄ちゃんは手加減を知るべき!」とかなんとか叫ぶアホに「また明日な」と手を振り、振り返したのを見てから病室を出た。櫻井さんも「咲季ちゃんちょっと待っててね」と俺の後に続くように出ていく。
そして、廊下を少し進んだところで櫻井さんが歩く速度を上げ、俺の肩を軽く叩いて先へ。
「じゃ、お疲れ様ー」
今日のために無理をしてくれた事を感じさせない、あっけらかんとした態度。
やっぱり凄いなこの人は。
だから俺はその背中へ向けて深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「だからいいっちゅーに」
櫻井さんは恥ずかしそうに後ろ手に手を振り、
「……あのさ、片桐君」
何か言いたげな、それでいて言いたくなさそうな、そんな気まずげな雰囲気を纏わせながら、立ち止まって振り向く。
「やっぱりあの子はさ、今日みたいに……」
しかし紡がれた言葉は途中で途切れた。代わりに取り繕ったような乾いた笑いが櫻井さんの顔に浮かぶ。
「いや、今日は楽しそうでなにより。またいつでもこき使ってね」
「あ、えっと、はい」
そのまま逃げるように廊下を曲がり、去っていった。
俺は一人取り残されたような気持ちになって、その方向を見つめた。
櫻井さんが最後に言いかけた言葉。
それは考えるまでもなくすぐに予想できた。
今となっては分かりきった事。
俺達家族が今の今まで気づけなかった事。
もっと早く気づくべきだった事。
だからこそ根深くて、誰かがはっきり言わないと終わらないエゴ。
きっとそれに対する言葉なのだろう。
ただ生かされるのと生きるのじゃまるで違う。
つまりはそういう事。
今日の咲季を見て、俺もそう思う気持ちが強くなった。
咲季は、元気に動ける今は退院して、外に出て沢山笑って、悔いなんて残さないくらい楽しまなきゃ駄目だ。
たとえそれで長く生きられなくなったとしても、「思い出をください」と言ったあいつのためにはそうするべきなんだ。
だけど今はそれを母さん達が許さない。
心配だから、長く生きていて欲しいから、咲季を閉じ込める。
気持ちは分からないわけじゃない。だって少し前まで俺もそっち側だったんだから。
けど、やっぱりそれは正しくないと思うんだ。そこに咲季の気持ちが反映されていないから。そんなものただのエゴでしかない。
多分父さんと母さんもそれを心のどこかでは分かっているはずだ。
問題はそれをどう気づかせるか……なのだが。
「それが出来れば苦労は無いか」
出来ないから櫻井さんも俺も手をこまねいてるわけで。
だから櫻井さんも、詮無い事だと今の言葉を飲み込んだのだろう。
誰もいなくなった廊下の途中、俯いて小さく息を吐き、自分の手のひらを見つめた。
図体だけでかくなって、結局中身は全然成長できてやしない。中学の時から何も変わってない。咲季のために何も出来ていない。そうする力も無い。
「無い無いづくしだな」
口をついた言葉に思わず笑ってしまう。
…………けど、
――『お兄ちゃんは私が助けてあげる』
咲季のあの言葉が現実になって、母さん達が俺を普通に扱ってくれるようになれば、俺の言葉も聞いてくれて、咲季の退院にも聞く耳を持ってくれるだろうか。
そうすれば……、いやいや、何を馬鹿な。情けなすぎだぞ俺。そもそもそんな低い可能性に縋ってどうする。
首を振って馬鹿みたいな考えを振り払う。
やはり疲れてるんだろう。
色々と考えを巡らせるのを無理矢理打ち切り、病院を後にした。
外に出ると、広がっていたのは暗闇に包まれた景色。
ぽつぽつと間隔を開けて点在する街灯に導かれるように、俺は帰路を進んだ。
湿り気を含んだ生ぬるい空気が肌に絡みつく。鼻腔を過ぎるのはアスファルトが水を含んだような独特な匂い。
歩きながら空を見上げると暗闇の中でもよく分かるくらいの重苦しい雲が空に広がっていた。と同時に、顔に何かが当たる感覚が。それが水滴だと気づいた時には既に次の水滴が腕に当たっていた。
――雨か。
あいにく傘なんて持ってきていない。このまま降り続けるなら走ることになりそうだった。
# #
本格的に降り出してしまった。
しかも結構大降りで、滝のような雨が地面を強く打ち付けている。だからやむなく疲れた体に鞭打ち、走る羽目に。最悪だ。帰ったらすぐにシャワーを浴びて寝よう。
俺と同じように急に雨に降られて走るサラリーマンや塾帰りと思われる学生を横目に、草木の生い茂った高架下と寂れた公園を抜け、家のある住宅街へ。
ぬかるんだ地面を強く踏みつける度に水を含んだ靴がびちゃびちゃと鳴る。人気の無い世界では雨音とその音だけが耳に届いていた。
だからだろうか、余計な情報が入らなくなった脳が、視界が、俺の家を捉えた瞬間、街灯に照らされたそれをすぐに見つけてしまった。
家の門、玄関の前。
母さんが立っていた。
降りしきる雨に身を晒されるのも気にせず、ずぶ濡れの姿。
異様だった。
駆けていた脚が自然と止まっていく。
目が合った。瞬間、雨音が遠ざかっていくような感覚があった。
濡れて顔にへばり付いた髪。
そこから覗く、目。幽鬼のような形相。
感じ取れるのは、底知れぬ怒り。
背筋が凍った。
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