第三十一話 嫌いじゃないの?


 彼女は恋愛というものにとんと触れて来なかった。

 両親が男女関係に厳しかったのもあったし、高校からは女子校へ進学したので、男性に会う機会というものがそもそも極端に無かった。

 普段見る異性は教師と父親のみ。そういう生活を送っていた。

 ゆえに、彼女が恋愛というものに一際興味を抱いたのは必然だったのかも知れない。


 大学生になって一人暮らしを始めた彼女はある日、同じサークルの男性に告白された。大学三年生の冬の事である。

 粗忽そこつで強引なきらいがあるが、サークルのムードメーカーで周囲から愛されていた男だった。


「明るくて楽しいけれど、軽そうな人」


 男への印象は決して良いものばかりでは無かったが、三年間同じ時間を共有した情もあったし、何より恋愛に興味が強かった彼女はその申し出を受け入れた。

 交際は順調に進み、その楽しさを知った彼女は男にどんどんのめり込んでいった。


 しかし、それがいけなかった。


 大学四年生の初夏、彼女は妊娠した。

 男と共に早くから企業の内定をもらい、日々浮かれていた感は否めなかった。

 彼女はしばらくの間、男にそれを黙っていたが、やがて隠しきれなくなって相談した。


「一緒に頑張っていこう」


 男はそう言った。

 しかしその日から男は段々と彼女に距離を取り始めた。

 そしてとうとう行方が分からなくなり、彼女とお腹の子だけが残された。


 両親へ相談し、子供を産むことを決めた。堕ろすなんて選択肢は無かった。それは彼女の良心に反したし、何より両親から言われた「自分のしたことに責任を持て」という言葉が重かった。


 それから内定も辞退し、子供のために尽くした。


 やがて、彼女は男の子を産んだ。

 子には秋春あきはると名付けた。

 秋と春。暑い夏と寒い冬の中間の過ごしやすい気候。そんな二つの季節のように穏やかな心を持って育って欲しい。そんな願いを込めた。

 子供に対し彼女は愛情を注いだ。

 子供を育てる大変さは確かにあったが、それでも自分で産んだ子というのはどうしようもなく可愛かった。


 それが変わっていったのはいつからだろうか。

 子供が立てるようになって、言葉を発するようになってからか。

 子供の顔が、「ママ」と言って笑った顔が、彼女の暗い記憶を刺激した。

 似ている。

 自分を捨てて逃げた男。

 確かな愛があったと思っていたのに、すぐに裏切った男。

 好きだから告白してきたのではないのか。

 段々と男を好きになっていった自分とは反対に、彼の方は冷めていったというのか。

 そうだとしたらなんと自分は愚かなのだろう。


 内定まで辞退して、パートでなんとか食いつないでいる自分の裏で、あの男はなんの責任も負わずのうのうと暮らしている。

 思うと、手に力が籠った。

 熱に浮かされていた心に冷水をかけられたようだった。


 なんで自分だけがこんなにも苦労しているのだろう。


 塞がれていた感情が堰を切ったように溢れ出た。

 怒り。悲しみ。苦しみ。

 そういう類の負の感情が胸を渦巻き、荒い息となって吐き出される。

 視界にノイズがかかって、悟った。


 ――きっと私は、この子を愛せない。



 # # #




 誰かを好きになるのに明確な理由なんて無い。

 それが片桐咲季の考えだ。好きになるというのは色々な要素が絡まって、初めて行き着く感情だと思っているからである。

 だから自分が兄を好きになったのも感覚的なものでしかなく、はっきりとした言葉では表せられない。


 だが、人にその理由やきっかけを問われたとして、あえて一つ答えるならば、


「私を恨まないでいてくれたから」


 こう答えるだろう。



 母と父の事は大好きだ。

 自分の事を気にかけてくれる温かい人達だから。

 だがそれとは裏腹に、兄に対してはとても冷たかった。態度が、表情が、声色が。

 兄が中学生の時から、両親が彼を愛していないのははっきりと気づいていた。そしてそれが父親が違うという事を起因としているのも。


 だから当時咲季も、大好きな両親が好いていない兄が苦手だった。彼が居ると家の中の空気が張り詰めたように感じて嫌だった。それでも彼と関わり続けたのは、自分が緩衝材となることでその空気を少しでも軽くしようとしていたからだ。

 両親が笑っていて欲しい。それだけだった。

 その意識が変わっていったのは秋春が両親との関係を決定的に壊した二つの事件を起こした後。

 今まで刺々しい態度だった彼が憑き物が落ちたように優しくなったのだ。元々咲季に対しては柔らかい態度ではあったが、それが一層強くなった。


「私のこと、きらいじゃないの?」


 だから、ある日咲季は秋春へ訊いた。

 両親から笑顔を向けられるのは自分だけ。咲季が逆の立場なら不満や妬みで絶対に嫌いになっている。


 しかし、秋春は何も言わずに咲季の頭を優しく撫でただけだった。

 見上げると、彼は少し困ったように笑っていて。そこに悪意なんて一切感じられなくて。


 その手の温もりは数年経った今でも覚えている。


 この小さな出来事が、咲季の秋春に対する感情を変えるきっかけとなった。

 あまり興味を持って見る事の無かった彼をよく目で追うようになった。彼の隠れた優しさに気づくようになった。

〝しかめ面の恐い男の人〟は〝優しくて大好きなお兄ちゃん〟へ。


 だから、咲季は思う。

 お兄ちゃんに笑って欲しい。

 お父さんとお母さんと一緒に。



 # #



「メッセ来てなーい」


 ベッドの上で寝そべり、咲季はスマホのメッセージアプリの画面を不満げに眺めた。

 朝。昨日の夜から続いている雨の音が窓の外から聞こえる。空は重苦しい雲に覆われていて陰鬱な気分を誘発させられそうだ。

 実際、そのせいもあってか咲季の機嫌はいつもより幾分か悪い。

 その上昨日のデート後に送った、


《今日はホントーにありがと!!》

《またどこか連れてってね♡》


 というメッセージに何の反応も無いのだ。なおさら良い気分でいられるはずが無い。

 どうせ疲れて面倒だからといって未読無視をしているんだろう。そうに違いない。

 仮にも(本当に仮だが)恋人に対してそういう態度なのは相変わらずではあるが、「昨日あれだけいい雰囲気になったのに」と納得がいかない気持ちだった。

 最近はメッセージの返事が早くなってきていると思ったのだが、また以前のような調子に戻ってしまったのか。由々しき事態である。


「絶対文句言ってやるんだから」


 今日、秋春が顔を見せた時にこの不満をぶつけてやろうと心に強く誓い、


「むふふ」


 その時の彼の面倒くさそうな、愛しい顔を思い浮かべてだらしなくほくそ笑んだ。

 想像していたら不機嫌だった気分が和らいでいくのが分かる。なんて単純な思考回路だろう。また違う種類の笑いがこぼれた。きっと今写真を撮られたら最高にいい顔が撮れると思う。

 本当にドツボにはまっている。日々、秋春を好きになっていく。好きという気持ちに上限なんて無いのかもしれない。

 昨日も手を繋いでくれたり、ナンパから助けてくれたり……ああ、お化け屋敷の時は情けなかったけれど、そんな一面もかわいくて好きだ。欠点さえ好意的に捉えてしまうあたり末期なんだろうと自分で感じる。過去の自分からは考えられない感情だ。

 中学生になって、秋春に対する感情が恋情だと気づいた頃にはまだ淡かった気持ちも、今となっては決して消せないほど濃く、大きくなっている。

 どんなに顔が良くても、どんな凄い特技を持っていようと、他の異性なんて考えられない。

 一番大好きで、一番大切な人。

 他の何よりも。


「んー、しゅきー」


 ぐるんとベッドで回る。


「キスしたーい」


 またぐるりと回る。


「……待てよ、ていうかなんでキスしなかったの昨日」


 そして浮かれていた気持ちから一転、思い出した重大な事実に突如冷静になった。

 そう言えばそうだ。なぜだ。

 恋人同士で遊園地デート。

 その過程で普通ならあって然るべき行為をしていないではないか。

 何なんだあの兄は。ヘタレか。観覧車にまで乗っておいて。観覧車と言ったらキスのはずだ。常識だろう。


「今日会ったらまずキスだね。うんうん」


 ――と、一人で勝手に硬い決意を胸に宿していると、スマホの画面を無為に見ていた目が画面の上から出てきた通知のバーナーを捉えた。

 メッセージアプリの通知。

 反射的に秋春からの返事だと思い、体を飛び起きさせてバーナーをタップした。

 しかし、それは期待に反して違う人物からのメッセージで。


 赤坂結愛。


 拍子抜けした気持ちと共にそれを読んだ。


《アキ君の様子はどう?大丈夫?》



「…………?」


 意図の読めない文章に首を傾げた。

 様子?そんな事を聞かれても、いつも通りとしか言えない。両親との関係で悩んでいるので少し元気が無いと言えばそうだが。


 何の脈絡も無い問い。

 不意に身体の中に冷気が流れていくような空恐ろしさを感じた。


《お兄ちゃんがどうかしたの?》


 返信すると、すぐ返事が返ってきた。


《そっか、同じ病院でもすぐに情報が入ってこないものなのね》


 返ってきた文章もわけが分からなかった。

 ただ、〝同じ病院〟というそのフレーズがやけに目について、意識に張り付いて、離れない。

 そして次のメッセージが送られてきて、


「…………え?」


 スマホが手から滑り落ちた。呆然とベッドに落ちた画面を見つめる。理解が及ばなくて、理解したくなくて、しばらく固まっている事しかできない。

 と同時、病室のドアが勢いよく開かれた。

 その方向を見ると、看護師の制服を着た人物がいた。

 昨日のデートをサポートしてくれた女性――櫻井が強張った面持ちで立っていた。


「櫻井、さん」


 呟きにも似た声で咲季は呼びかける。


「お兄ちゃん、お兄ちゃんは……」


 焦りが声に乗って、震える。

 だって、結愛が送ってきたメッセージには、



《アキ君昨日そっちに入院したのよ》



 そんな不吉な言葉が書かれていたのだから。








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