fragment 2 ザッハトルテを作りましょう


「咲季も大変だよね」


 放課後。茜色に染まった教室。

 藍原高校の一年八組。

 そこで日直としての仕事――教室の掃除をしながら、城ヶ崎じょうがさき舞花まいかは机の上に座った少女を見遣る。


「何がー?」


 手に広げた料理本から視線を離し、少女――片桐かたぎり咲季さきはちょこんと首を傾げた。

 艶のある黒髪が動きに合わせて揺れる。

 コートとマフラーを着て帰る準備は万端である彼女は、親友である舞花が掃除を終えるのを暇潰ししながら待っている途中だった。


向田むこうだの事」

「あー、おぅ」

「何その返事」

「いやぁ、まさか私のチョコにあんな魔力があったとは…って。えへへ」

「毒味でチョコあげただけなのに勘違いして、くそ迷惑じゃん」


 二人が話しているのは隣のクラスの向田篤むこうだあつしという男子生徒の事である。

 容姿はそこそこ良く、ファッションや制服の着こなしにも気を使っている、学年のヒエラルキーで地位が高めの生徒だ。


 昨日――2月14日に咲季が毒味と称してチョコレートを彼にあげた事から勘違いを起こし、「片桐はどうやら俺に惚れてるらしいぞ困ったなへへっ!」という内容の話を触れ回っていた愉快な人物である。


「ま、咲季も悪いけど」

「え、私悪いのあれ?」


 咲季は心底心外だと言うように身を乗り出した。


「悪いでしょ。なんで男子であいつにだけチョコあげたわけ?」

「だって向田君この前私の好きなバンドの限定生産CD貸してくれたからそのお礼…みたいな」

「お礼で…んしょ、毒味させんのかアンタは」


 掃除のためにどかしていた机を戻しつつ、舞花。


「だって向田君「女子からバレンタイン欲しいわー」って教室で騒いでたから、それならーって」

「その雑な気遣いのせいで咲季が向田に告ったって噂になってるわけだけど」

「そういう事じゃ無いですよって意味も込めて毒味を強調したんだけどなぁ」

「恥ずかしくて毒味を強調するいじらしい乙女とか曲解されてんじゃないの?」

「あはは、夢から覚めるといいよね」

「……夢からは既に覚めてると思うけど」


 舞花が小声で言った言葉は咲季には聞こえなかったらしい。

 咲季は広げていた料理本をパタンと閉じ、神妙な様子で、


「ところで、そんな事よりだよマイマイ」

「ん?」

「一緒にザッハトルテを作りましょう」


 唐突な宣言に舞花は机を運ぶ手を止めた。


「ザッハトルテ?なんで?」

「お兄ちゃんに女の影アリでエマージェンシーだからだよマイマイ」


 珍妙な言い回しに舞花は戸惑う。


「何が緊急事態なのか分かんないし、それがザッハトルテとどう繋がるっての?」

「あの、女の影どころか男の影さえ見えないお兄ちゃんに、生チョコをあげた女が出てきやがったんだよ!?これが緊急事態じゃなくてなんだというのかね!?」

「それでなんでザッハトルテ?ていうかバレンタインもう過ぎたし」

「お兄ちゃんはね、その生チョコをやたらと褒めて褒めて褒めちぎって「うめぇうめぇ」と私の前で食い散らかして、終いには「咲季も食う?」と言ったわけですよ!」

「う、うん」


 自分の質問を綺麗にスルーされたが、咲季の迫力に押されて何も言えなかった。


「私はそれを宣戦布告と受け取りました」

「そう、なんだ」

「聞くとその生チョコヤローは市販のチョコを溶かして型に嵌めるだけなんてちゃちな真似はしていないとの事」

「まあ、生チョコ作ったんならそうだろうね…」

「というのを市販のチョコを溶かして型に嵌めただけのバレンタインチョコを作ったこの私に言ったんですあの兄」


 咲季の表情が消えた。

 かなり煮えたぎっているらしい。


「戦の始まりですよ。もう怒ったかんな状態ですよ」


 咲季が興奮すると口調やら何やらおかしくなるのは承知していたが、独特な表現のせいで全く怒りが伝わってこないのは一種の才だなと舞花は内心苦笑。


「だから今日やたらと料理本開いてピリピリしてたのね」


 そのおかげで、すっかり咲季が惚れていると思っていた向田が休み時間に彼女に声をかけた時、「ごめん今無理」ととんでもなく冷たい声を浴びせられていたわけか。

 舞花は納得した。


「そう!で、今凄いやつを見つけたの。それがザッハトルテ!もう名前がオシャレだよね。オシャレ度ではこっちのが強いからね!勝ったねこれは!じーくはいる!」

「つまり、その女の人に対抗意識を燃やしているって事?」

「正確に言うとお兄ちゃんの「お前にこんな美味しいの作れねぇだろ」みたいな舐めた態度を正してやろうって思って。だからマイマイの力を借りたいの。スイーツ系得意でしょ?」


 咲季の言葉に舞花は少しの間考える素振りをし、


「…………………」


 静かに首を振った。


 #


「マイマイが手伝ったら私の作ったものとは言えない。そう言われ、私は一人で孤独にスイーツ作りに取り掛かったのです!」


 そう言って咲季はテーブルの上に小皿を置いた。

 それを席についた兄――片桐秋春かたぎりあきはるは目で追い、


「へぇ。そうなんだ。で、何この黒い物体。木炭?」


 皿の上に置かれた真っ黒な何かを指差した。


「…食べてみれば分かるよ?」

「突然呼び出して何かと思えば、この得体の知れないモノを食べろと?」

「得体知れなくないもん!ちゃんとしたスイーツだし!」

「ふーん。なんてやつ?」

「……………………ザッハトルテ?」

「なんで疑問形なんだよこえーよ」

「妹が健気にバレンタインチョコ作ってきたのになんだその態度はー!」

「え、チョコ?あ…これチョコなのか……チョコ?」


 秋春は顔を顰めて黒い物体をまじまじと見つめた。

 確かにグチャグチャの形それの上にはチョコらしきものがかかっている気がした。あくまで気がしただけだが。


「チョコ以外のなんだっていうのかな!」

「分かんねーから怖いんだろ。何をどうしたらチョコからこんなコールタールみたいなのが出来上がる」

「ひとえに私の愛かな」

「ここまで黒かったらもはや殺意だな」

「もうなんでもいーよとにかく食べてよお願いよ食べてよー!食べて貰えなかったらもっと惨めになるー!」

「いや、ていうかなんでまたチョコ?昨日バレンタインチョコ作ったじゃん」

「つべこべ言わないで食べてよ~!意外と食べれたから〜」

「分かった分かった!食べるから胸倉掴むな揺らすな!」


 しつこく揺さぶってくる咲季の腕を力を込めて無理矢理剥がし、Tシャツの襟を正した。

 次いで、目の前の黒い物体のそばに置かれたフォークを手に取る。


「…………」

「…………」


 一口取り分け、口に運んだ。



「……うん」



 秋春は一言だけ発し、フォークを置いた。


「ど、どう?意外と美味しかったり?」

「正直に言っていい?」

「優しめにお願いします」

「クソまずい」

「優しめにって言ったじゃん!」

「ゴミ箱に吐き捨てたいくらいゲロまずい」

「追い討ちかけて来たし!?」


 情け容赦の無い感想に咲季はいじけたようにしゃがんで背中を丸めた。


「ハイハイいいですよお兄ちゃんはあの生チョコ女の生チョコでも食べて「生っていいよな…感触が…」とか言ってりゃいいんだよ…」

「食感な。てか何、お前もしかしてあの生チョコに対抗意識燃やしてたわけ?」


 図星を突かれて咲季が言葉を詰まらせた。


「ふーん」

「な、なんだよぉ…」


 秋春は席を立ち、咲季の肩にポン、と手を乗せ、


「人には向き不向きというものがあってだね…?」

「うっせーわバカ兄!!」


 咲季は言い知れぬ敗北感に叫んだ。


 #


「…あれ?」


 風呂から上がった咲季はリビングの台所を見て首を傾げた。

 台所には風呂に入っている間に帰ってきたらしい母。しかし、咲季の注意はそこには向かなかった。


「お母さん」

「んー?何?」


 夕食の準備をしながら母は視線だけを咲季に向ける。


「ここに置いといたお皿どこかやった?黒いのが乗ったやつ」


 風呂から上がってから処分しようと思って台所に置いていたザッハトルテもどきが見当たらなかった。

 もしかしたら母が捨てたのかと考えていると、


「あぁ、それなら秋春が食べてたわよ?」

「え?」


 予想外の言葉が返ってきた。


「なんか不味い不味い言いながら全部。不味いなら食べなきゃいいのにね」


 不思議そうに言って、そのまま野菜を切る作業に戻る。


 咲季はしばし間、ぼぅ、とその場に立ち尽くしていたが、


「へ、えへ、えへへ」


 思わず顔を両手で隠してしゃがみ込んだ。


「うへへ、ツンデレかよー…ツンデレかよぉ」


 素直じゃないし、咲季の事なんてなんとも思っていないと感じることもある。

 けど結局なんだかんだで優しい兄。


「やっぱり…好きだなぁ」


 囁いたそれは身体に染み込むように消えていった。








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