第2話 昨日のお返事はまだかな


 咲季は去年、卵巣に病気が見つかった。


 手遅れ。


 医者が告げたのは、要約するとそれだった。症状が悪化してから判明する事が多い病気だったらしく、ご丁寧に一年という余命まで告げてくれた。


 十二月の、肌を刺すような寒さが一層深くなるような、そんな日だった。


 突然突きつけられた家族のタイムリミット。

 父さんと母さんは酷く動揺していて、見ていられない程だった。だけど、当の本人である咲季は特にどうといった反応も無く、


「そっか」


 と、まるで他人事のように呟いただけで。

 現実を直視出来ていないのかとも思ったけど、それもどうやら違うみたいだ。


『私に思い出をください』


 昨日俺に告白をしてきた咲季は、最後にそう言った。

 つまり彼女は自分がもうすぐ死んでしまうかも知れないという事をちゃんと理解しているんだ。



 けど、だからこそ……


「どういうテンションで送ってんだこれ…」


 大学の講義中。届いたメッセージを見て俺は眉を顰めた。

 スマホの、無料トークアプリの画面には、こんな長文。


《前略 お兄ちゃん。私は今、病院です。今とても寂しいです。看護師さんは大層笑顔で接してくれますが、どこか営業スマイル感が拭えていません。あの笑顔は人工着色料です。

 やっぱり自然の色が良いですよね。 草々》


「…………………………………」


 …どう返せば良いんだろう。


 とりあえずスマホをしまって講義に集中した。

 するとすぐにスマホから音が鳴る。


《既読スルーは酷くないですか》

《泣くぞ。喚くぞ》

《というわけで帰りに美味しいお菓子買って持ってきて。あれね、『黒い愛人』。めっちゃうまいあれ》


「………………………」


《贅沢言うなアホ》


 よく分からない流れでまあまあな値段のするお菓子を所望してきた欲の深い妹に適当にメッセージを送り、俺は今度こそ講義のノートを取るのに集中した。


 まったく、咲季には調子を狂わされる。

 余命を宣告されてもいつも通りで変わらない。

 だから俺も、いつも通りに接してしまうんだと思う。



 #


「お兄ちゃんありがとっ」


 満面の笑みで俺を迎えた咲季はひったくるようにビニール袋を取った。


 相変わらず簡素な室内だ。

 他に人のいない個室。白に染まった壁や床、ベッド。ベッドに座る、病院着姿の妹。

 一瞬、痛ましいとか、可哀想だとか、そんな負の感情が表に出そうになるが、振り払う。

 いつも通り。

 咲季が望んでるのは同情とか遠慮じゃない。

 それはこれまでの彼女の態度から察する事ができた。

 だからなんの気も使わず、


「お前友達とか来ないの?」


 用意されたパイプ椅子に座り、ベッドの上で胡座をかいている咲季に訊いた。

 その手にはビニール袋から取り出した『黒い愛人』の包装。

 手の早いやつである。


「普通来ないでしょ」


 何を言ってるんだと言わんばかりの顔で『黒い愛人』を口に放った。


「なんで?」

「いひゃ、最ひょのうひは……来てくれたけど、高三だし勉強とかさ、色々あるじゃない」


 口の中のブツを飲み込みながら咲季が答える。

 納得した。確かに今の時期だとちょうど頑張っている最中か。


「そんなの必死でやっても将来一ミリも役に立たないのにねぇ」


 思っていると、訳知り顔で咲季がなんか言い始めた。


「お前が何を知ってるんだ何を」

「じゃあ実際どうなんだよー大学二年生」


 不服そうにこちらを眇めてくる。

 少し、考えてみた。


「…一ミリ程度の役にしか立たない」

「ほらー」

「大学は勉強どうこうより、どれだけ友達が出来るかが重要かな」

「へー、そうなんだ?」

「過去問の情報、どの授業が楽か、カンニングの協力、そういった事においてとても役に立つ」

「うわ最低だこいつ」


 そんな事もないと思う。

 義務教育期間や高校では強制的にクラスが決められ、席も固定されているため、自然の流れで交友関係が作りやすいが、大学にはそれが無い。自分から積極性を持って当たらなければならないから、今まで学校の強制に甘えていた俺としては非常にやりづらく、大した友達も出来なかった。

 だからほぼ利用し利用される関係の人間としか関わっていないのである。テストで困っていたら助け合いましょうね程度の。


「多分サークルに入らないと駄目だったんだろうなぁ」

「なんで?」

「理由は色々あるけど、一番は友達作りやすいから」

「さっきの態度からして大学に友達いっぱいいるんじゃないの?」

「うーん、大学にいるのは知り合いに限りなく近い友達というか…。喋りはするけど遊んだりはしない奴らというか」


 上手い言葉が見つからず、うんうん唸りながら言葉を考えていると、


「つまり路傍の猫みたいな奴らね」


 なんだその表現。

 訝しんで咲季を見る。


「いたら興味はちょっと移るけど、立ち止まってじっくり見る程じゃないじゃん、野良猫って。大学の人も、きっと廊下で会ってもちょっと挨拶するくらいでしょ」

「…なる…ほど?」


 独特な表現だが、なんとなく言いたい事は分かった。

 だけど猫好きな奴は野良猫見た瞬間金縛りにあったかのように固まるぞ。


 視線を逸らし、知り合いの猫好きを思い浮かべて一人苦笑する。

 すると、突如として静寂が場を支配した。


「…………?」


 咲季を見遣る。

 俯きがちに視線を下げ、自分が座るベッドを見つめていた。

 口は動いていないから、お菓子を口に含んでいるのではないらしい。

 ならばなんだこの静けさは、と嫌な予感を胸に咲季の反応を待っていると、


「…ていうか、お兄ちゃんさ」


 咲季が顔を上げ、


「うん?」


「昨日のお返事はまだかな?」


 問い詰める刑事のように身を乗り出してきた。


 昨日の返事とは、当然、兄妹間で起きてはいけないあの告白イベントの事だろう。


「……保留」


 急に厄介な問題を掘り起こそうとしてきたのでそっぽを向いた。


「それ昨日も聞いた。今日もそれで逃げられると思うなよ」

「心の整理をさせてください」

「十秒待ってやる」

こくです。秒単位はあまりに酷です妹様」

「答えを保留されて悶々とするこっちの方が酷だよ」

「妹に迫られるこの状況のが酷だと思う」

「こんな巨乳捕まえといて何が酷だー!」


 いきなり沸騰したやかんのように怒り、下から掬うように二つの大きな塊を持ち上げる咲季。

 そして自らムニムニと揉みしだき始めた。


「どうだ!付き合ってくれればこの双丘そうきゅうをこのようにモミモミする権利が!お兄ちゃんには!ある!」

「いや何言ってんの?」

「モミモミできる!」

「いや、いいです遠慮します」

「触れ」

「やだ。やめて下さい。腕を掴むな胸に寄せるなっ」

「一回っ、触ればっ、病みつきになることっ、請け負いだよっ!」

「触る意味が分からん!ていうか強!こいつ力強!」


 ギャーギャーとアホみたいに騒ぐ俺と咲季。


 しかし途中で、廊下にいた看護師のお姉さんに「静かに!」と怒られ、どちらも冷静になった。


「…………………」


「…………………」


 気まずい沈黙が降りる。

 咲季は思い出したようにベッドの傍らのお菓子を袋から取り出し、口に放る。

 不貞腐れたような膨れ面。思わずため息が漏れた。

 どこまで本気なんだろうかこいつは。

 現実離れした状況は、簡単に受け入れられるものじゃない。


 咲季には昔から好かれていたように思う。だけどそれは兄弟愛とか、そういう類のものだと思っていた。いつから恋愛に変わったのかとか、そもそも最初から男女としての好きだったのかとか、考えた事も無い。想像の埒外だ。

 気持ち悪いとかいう思いは不思議と無いけど、ただただ戸惑いだけがある。


「咲季」


 自然と、口が動いた。


「…なに?」

「お前、その…なんだ、あれさ…」


 自分でも気色悪いくらいにつっかえながら、言葉を探す。


「Eカップです」

「あ?」

「ん?」

「何の話?」

「バストだけど?」

「……………………」

「おっぱい」

「うるせぇよ言い方の問題じゃねぇよ」


 自分の胸を指さして子供に言い聞かせるように言ってきたので、咲季の頭をはたいた。

 真面目に色々に考えていた事が馬鹿らしくなってきたな。


「それでおっぱいがどうしたの?」

「違うわ。何なのお前。ほんと何なのお前?」

「やっぱり触りたくなったのかなって」

「………………………」

「やだわお兄ちゃん、それは教室のすみでAV女優のエロさを語っている男子を見た時の女の子の目よ。可愛い妹に向ける目じゃないわ」

「何で自分から話を逸らしにいくんだよ…」


 思わず額を押さえてため息をついてしまう。

 本当にこいつは…


「…お前さ」

「うん?」

「確認するけど」

「はい」

「昨日の告白は本気、なんだよな?」


 俺の言葉のトーンに真剣さを感じ取ったのか、咲季は少し言葉に詰まりながら、


「………エイプリルフールでもないのに、あんな大それたこと、言わない…」


 恥ずかしいのか、俯きがちになってモジモジとしている。

 手入れを怠っていないのが分かる黒髪がはらりと流れた。

 …そんな姿を少し可愛いと思ってしまう自分がいて、何だか凄く恥ずかしい。いや、恥ずかしいと言うより、罪悪感というか、自分に対する嫌悪感とか、そういう方が強いか。

 妹に対して〝女性〟を感じてしまった自分が非常に気持ち悪い。

 好かれていると知った瞬間これか。

 流されやすい自分に嫌気が差しそうだ。


「そ、そもそも疑問なんだけど、何で俺がいいと思ったんだ?」

「そういうの昨日言おうと思ったのにお兄ちゃん「用事思い出した!」とか言ってすぐ帰っちゃったんじゃん」


 膨れ面で軽く睨まれる。


「いや、昨日は本当に実験レポートやってなかったの忘れててだな…」

「まー、なんでもいいよ。お兄ちゃんが好きな理由でしょ…」


 俺の言い訳などどうでもいいと聞き流された。酷いやつだ。


「…………………………………」


 手元にあったお菓子を口に放り込みながら考え出す咲季。


「………………」

「………………」


 考えて、


「…特にこれといった何かって、お兄ちゃん無いよね」


 やがて、真顔でそんな事を言い出した。


「俺を好きとか嘘だろ」

「あ、ごめんね。良い所ね、良い所。考える。待ってて」

「いや、いいです。無理して捻り出さないで下さい哀しくなる」

「いやいや、良い所はいっぱいあるんだよ!ただ、これといって自慢出来るような所は無いなってだけで!」

「褒めるかけなすかどっちかにしろっ」

「お前に突出した何かなど一片たりとも存在しない!」

「貶す方取るのかよ!」


 本当に何なんだこいつ。

 元々適当な性格だったけど最近は輪をかけてテキトーだ。

 なんと言うか、枷が外れたと言うか、今まで抑えていたものが出てきたみたいな、そんな感じ。

 それが何時いつからなのか、何となく分かっているから少し心配になる。


 とはいえ、このままのペースでいくと本題に戻るのがかなり後になりそうなので、軌道を修正。


「そんなだったら俺じゃなくて他の奴に乗り換えろ。うん。それがいい」

「それはやだ」

「何で?」

「お兄ちゃんが好きだから」


 即答。

 明快過ぎて、面食らう。


「何がそこまで咲季を動かしたんだ」

「分かんないよ。気づいたら好きだったんだもん」

「良い所無いのに?」

「不思議だよねぇ」

「そこは否定する所だぞ妹」


 あはは、と快活に笑う咲季。

 いや、あははじゃない。


「ともかくね、私は答えが欲しいの。恋人になってくれるのか」

「…………………」


 普通は悩む所ではない。断固拒否が当たり前だ。

 だけど俺はこの半年、咲季のために何が出来るかを考えてきた。だが何が咲季にとっての〝幸せ〟なのか、考えても分からなかった。

 咲季にいきなり「死ぬまでにやりたい事はないか」なんて訊けなかったし、そういう風な事を言える雰囲気も、長年一緒に居たからこそ、作れなかった。

 そんな時に咲季が初めて口にした大きな願い。

 叶えてやりたい。だけど、倫理観とか、世間体とか、常識とか、そういう枷がやはり俺の中にはあって。


「他に…やりたい事は無いのか?」


 だから逃げるように、他の道を探ってしまう。


 俺の必死さなど知ってか知らずか、咲季は呑気に口を半開きにして数秒悩んだ後、


「コスプレ」

「…お、おお、へぇ、意外だな」

「あと車」

「…ほお」

「時間停止」

「うん」

「触手」

「うん」

「マジックミラー号」

「うん、誰がやりたいプレイを列挙しろと言った?」


 途中から真面目に答えていない事を察し、指摘。


「違うよ。好きなAVのジャンルだよ」

「どっちでもいいわ!ていうかホントさっきからどうやっても話逸らしやがるなお前!」

「恋人になるかならないか。それが聞けるまでは私の心は動きません」


 この態度を見るに、やはり俺と付き合う事が一番やりたい事らしい。


「お前は…本当に…もう…どうやったらそう適当なやつになっちゃうかな…。そしてどうして変な方向にだけ真面目なのかな…」

「私の持論では血筋一割、周りの環境一割、お兄ちゃんが八割だと思ってる」


 ほぼ俺のせいじゃねぇか。

 絶対破綻してるその持論。


「…で、答え。答えを頂戴お兄ちゃん」

「………………………」

「うじうじしてる男は嫌われるよ。振るなら振る!付き合うなら付き合う!二つに一つ!張った張った!」

「いやどんなテンションだよ…」


 畳み掛けるような咲季に気圧される。

 言葉はふざけているが、やはり態度には隠し切れない真剣さがある。

 頬が赤いし、ちょっと声が震えてるし、鼻息荒いし。


 一々態度がでかいのは不安の現れか。

 非常識な願いを言っている事は自覚しているのだろう。

 我が妹は主に適当だが、馬鹿という訳じゃない。

 だから昨日の告白は一世一代の勝負だったんだろうと思う。答えを先延ばしにされたら不安になるのも当然。

 何より咲季には……時間が無い。


 俺は早急に答えを出すべきだ。

 答えを…



「………分かった。じゃあ、こうしよう」



 俺は意を決して、自分の中の妥協案を口に出した。















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