第120話 真理と秩序

 赤い縦長の瞳孔が怪しく光り、持ち上げた口の端からは白い牙を覗かせる。



「おまえはいつか立ち上がる。太陽の神と共に。必ずやゼウスを討たんとするはずだ。だから俺は決めた。俺たち三兄弟はここでその時を待とうとな。女神継承者エストリーゼ。俺たちの力はおまえのためにある! だが、それはまだまだ先のことになるだろう。それまでは、百五十の頭と三百の腕、最強の見張り番として大いに役に立ってやろうじゃないか」



 エストリーゼとアフロディーテの双眸は大きく見開き、二人は何かに打たれたように少しの間動くことができなかった。


 五十の顔、百の目が惜しげもなく放ってくる期待感が、息苦しくも頼もしい。



 その張り詰めた緊張を打ち切ったのは、愛と美の女神だった。



「わ、わたくしも! わたくしもですわ、ブリアレオス。エストリーゼが立つとおっしゃっるならば、わたくしも微力ながら全力で支援いたします!」



 楽しげな男の声が笑った。


 少し高めのその声は、活発な青年を思い起こさせる。



「愛と美の女神アフロディーテ、おまえは本当にいい女だなぁ! しかもおまえは非力なんかじゃないぞ、ギュゲスは心底おまえにぞっこんだ。奴はおまえのためなら何でもするぞ! あぁ、そうだ、帰るときは一目会ってやってくれよ」



 アフロディーテの顔はひくひくと引き攣った。


 ロリコン美少女趣味のギュゲスを、彼女自身はあまり得意としていないらしい。



 苦笑しながらエストリーゼは静かに言葉を紡いだ。


 自問するような慎重な声音で。



「わたしにはまだ分からないわ。ゼウスを討つ。そんな未来が本当にあるのかすらも。混沌カオスと共にあるガイアが言うことならば、それは確かな予言なのだと感じる。でも、わたしにはその全ての根源とされる混沌の意味すら分からないのよ。だけど本当にその時が来るとしたら、きっとわたしは正当な何かを見つけているはず。それは――」




 真理と秩序マアト――。




 けれど、その言葉をエストリーゼはまだ知らない。


 あまりに漠然とした感覚。



 しかしそれが存在することを明確に感じることができる。


 混沌すらも既知しないその存在を。



 その時。



 ウゥオオオオーーーォン。



 呪われた谷を遠吠えが過ぎていった。



「ハーデスの犬だな、ふん、物見遊山ものみゆさんな。これから天も地も海も、そして地底も動き出すんだろうなぁ。なんて不吉で最高に愉快なんだ!」


「ケルベロスを使って偵察だなんて、暗い闇の帝王にはお似合いですわね。だけど、エストリーゼ、ハーデスに会ったらきっと驚きますわよ」



 珍しくアフロディーテは意味深な笑いを零した。


 聞けば、ハーデスはアポロンと張り合うほどの美丈夫なのだとか。



 太陽と闇、対となる存在。


 それもまた混沌が望む意思なのだろう。



「まぁ、そんなことで。エストリーゼ、おまえが心配することはねぇ。確かに俺達は今も呪われたタルタロスにいる。だけどな、これも事実だ。俺達はおまえのお陰で自由を手に入れた。だからこうして、おまえ達にも会うことができる。もともと自由な奴らには分からねぇことかもしれないが、ずっと幽閉されてきた俺達にとっちゃこの上なく幸せなことなんだ。あ、今の嫌味じゃないぜ?」



 三人は声をあげて笑った。


 ブリアレオスの能力には、ただ者ではないと感じさせる何かがあった。



 彼といると周りはみんな明るくなる。


 その外見がどれほど異端なものだとしても、それすらも愛おしいと思わせる。



 彼らは信じるべき存在、愛すべき存在なのだとエストリーゼは強く感じていた。



「あ、そうだ! 太陽の神に伝えてくれ、コットスが会いたがってるってなっ。それにしてもあの男はいったいあいつに何をしたんだ? あいつは寝ても覚めてもあの男の名前ばかりを呼んでるんだぜ。異常すぎて恋煩いなんてもんじゃない。本当にどんなことをしたんだろうな!」



 いったい、アポロンはどんな手を使ってコットスを攻略したのだろうか。


 深く考えない方がいいだろう。


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