第111話 髪粉の借り

「お兄様……。いつまでたぬき寝入りを決め込んでらっしゃるのですか」


「そうだ。エスティは急所を外してるぞ」



 当然、二人が手を差しのべるわけはない。


 アポロンはそのままの姿勢で不満を垂れた。



「まったくひどい妹とふくろうだ。神のやいばを受けて重傷だというのに、優しい言葉のひとつもかけてはくれないなんてね」



 エストリーゼを迎えにきたアフロディーテとグラウコーピスは、少し前から二人の姿を見ていた。


 当然会話までは聞こえなかったが、黄金の剣を持ちエストリーゼに斬りかかる彼と、それに押されながらも懸命に剣を受ける彼女の姿を目撃していた。



「自業自得ですわ!」

「自業自得だ!」



 重なった二人の声がアポロンの耳を貫き、頭をがんがんさせた。


 耳が良すぎるのは不幸なことだと心中で呟きながら、ゆっくりと身体を起こす。



 袖からストールを取り出すと自ら傷口に当ててみた。


 けれど、流れ出る大量の血液に、薄い布地は真っ赤に染まってしまう。



 それでも彼は満足そうに頬を緩めた。



「気色悪いですわね。重傷だと言いながらニヤニヤと……」



 アフロディーテは胡乱な目を向けながらも、アポロンの腕を取って立たせてやった。


 黒いトーガは容赦なく血で塗れ、鮮血がポタポタと音を立てて岩場に落ちている。



 苦痛に顔を歪めながらも、アポロンは身体を宙に浮かせた。


 そんな彼をもちろん気遣うことなく、アフロディーテは長い睫毛を伏せた。



 寂しげな表情を作ると小さな溜息を漏らす。



「エストリーゼは行ってしまったのですわね。もう……わたくしたちのところに戻ってはくださらないのかしら。このままプロメテウスと過ごしてしまわれるなんてことありませんわよね。人間を愛したプロメテウス。彼はきっと、エストリーゼという存在を待っていたのでしょう」


「大丈夫だよ! ボクがいるんだからエスティは必ず戻ってくるよ!」



 涙を浮かべるアフロディーテをグラウコーピスは励ました。


 親友の自分のもとへ帰ってくると、少しも疑っていないようだ。



「あんな男より彼女には私の方がふさわしい。それに、戻ってくれないと私が困る。また退屈な日々を送らなくてはならないと考えるだけで発狂しそうだよ。――仕方がない。柄ではないけれど、その時はプロメテウスと決闘して彼女を連れ戻すことにしよう」


「やめてくださいませ! お兄様なんかが現れでもしたら、絶対にエストリーゼは戻ってくれませんわ! いいですこと!? お兄様はこれ以上余計な行動をなさらないでくださいな!」



 アフロディーテは、腰に手を当てアポロンへ向けてキツく指をさす。


 劣勢に立ち、今回ばかりは怯んだ様子を見せる彼にグラウコーピスは笑った。



「さぁ、ボクたちも帰ろう」



「あ、そうでした! お兄様、仕方ありませんから今回だけはわたくしが優しく神殿へ送ってさしあげますわ。当然、タダではありませんわよ。ここで髪粉の借りを返させていただくということで」



 アフロディーテはポンと手を打つと。


 これでもかと言わんばかりに満面の笑顔を作ってアポロンに肩を差し出した。




 信じよう。


 ――エストリーゼはきっと帰ってくる。


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