第107話 女神の取引

 アポロンは身動きのできないゼウスに向かって、迷いなく金の矢を放った。


 矢は狙いを違えることなく、動けないゼウスの胸へと飛んでいく。



 しかし。



 その矢は、ゼウスに届く前に翠緑の剣に薙ぎ落とされた。



「何のつもりだい? その男はアテナを殺し、なおかつ継承者である君をも、今まさに殺さんとしているのだよ? そんな男を助けて、君はいったいどうしようというんだい?」


「あなたは……何も分かってないわ」



 苦痛と恐怖で蹲ったまま硬直しているゼウスを庇うように、エストリーゼはアポロンの前に立ち塞がった。


 そんな彼女へ、アポロンはこの上なく訝しむ視線を送る。



「もしかして――君は、彼女を死に追いやったのは私のせいだと言いたいのかい? 放蕩を装う私が卑怯だとでも?」



 煌めく黒髪をサッと払い、アポロンは心底馬鹿馬鹿しいと続ける。



「はっ、私に言わせれば、アテナの方こそ愚かな女神。無闇に才能を発揮したばかりに自分で自分の首を絞め、命を狙われる事態を招いた。あげくの果てには父親に裏切られ、卑怯な手にまんまと掛かって命を落とした。どこが知略戦術共に優れた女神だというのかね?」



 彼の言葉にエストリーゼは激しい憤りを感じた。


 同時に、抑えきれない悲しみが沸き上がる。



 内にあるアテナの感性が、深い嘆きを伝えてくる。



「この朴念仁! あなたは鈍感で最悪最低の男だわ!」



 またしても浴びせられた、己を形容するに相応しくない言葉に、アポロンは顔を引き攣らせた。



 その隙を狙って、エストリーゼは肩越しにゼウスを見やる。


 アポロンの強烈な光彩メランムに当てられ、まだ呪縛された状態のようだ。



 かなり精神的にも衝撃を受けているのだろうか。


 今のゼウスはどこか朦朧としてしまっている。



 聞こえているのか分からなかったが、エストリーゼは諭すように声をかけた。



「ゼウス、これは取引です。プロメテウスを解放してください。それを約束してくださるのならば、わたしが必ずアポロンを抑え、あなたをこの場から逃がします」



 ゼウスは我に返りエストリーゼと視線を合わせると、ぎこちない仕草でコクリと頷く。


 そこに先ほどまでの覇気は感じられなかった。



 まるでこれから訪れる遠い未来を垣間見るようで、エストリーゼの心は僅かに軋む。



「わたしは、いつかあなたを倒すために立ち上がる。それは混沌カオスが決めたこと。だから、きっと抗うなんてできないわ」



 その言葉は、未来への宣戦布告をも包含していた。



「だけど、それは今である必要はない。――わたしが合図をしたら、全力で逃げてください」



 清々しい表情でエストリーゼはゼウスへと声を送った。


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