第106話 女神アテナを殺した者

 歯の間から絞り出された軋むような声音に、エストリーゼは聞き覚えがあった。


 かつて晩餐会で、圧倒的な存在感を感じさせた男の声。



 もとい。



 さきほどまで自分と同行し。


 アレス軍のいるタルタロスの丘へと戻って行ったはずの男。



「生憎ですが、私はアテナとは違う。あなたのような臆病者の魂胆こんたんなど、手に取るように分かるのですよ? 全知全能の神などと聞いて呆れる。唾棄だきすべき愚神、それはあなただ」



 惨めな小物を扱うようなアポロンの言葉は、辛辣しんらつを極めていた。



 彼の言葉に促されるように、エストリーゼはゆっくりと背後を振り向く。


 金の矢を肩に受け、苦痛に顔を歪める男は――。



 全能神ゼウス。




 大地の女神ガイアは予言した。


 クロノスが父ウラノスを倒したように、ゼウスはその父クロノスを倒すだろうと。



 そしてその予言は、次期王者の心をも蝕んでいった。


 その順番でいけば、ゼウスも己の子供たちによって王権を簒奪されるのではないかと。



 父ゼウスのため百戦百勝を続けるアテナの活躍は、皮肉にも彼自身にただならぬ危機感を募らせた。



 クロノスを倒し王権を手に入れたい。


 だがそれは同時に、己が狙われる未来へと駒を進めることに他ならない。



 気概のないゼウスの中で、次第にアテナへの恐怖は膨れあがり制御できなくなっていった。



 そしてとうとう百一回目の戦争中。



 ゼウスは一旦神殿へ戻ると虚言し、背後から彼女に近づき振り向きざまにその胸を突いた。


 エストリーゼが既視感を感じたのは、まさに今がその過去を彷彿とさせる状況だったからだ。



 一方。



 クロノスは、アテナを継承したエストリーゼが再度ゼウスの毒牙に倒れる未来を良しとしなかった。


 恐怖に打ちひしがれて過ごす中で、ガイアの予言通りにいずれ自分が倒れるのならば、同じ苦しみをゼウスにも味わわせてやろうと企んだのだ。



 自分の子に命を狙われる恐怖を彼にも、と。



 故に、クロノスはエストリーゼを攫い命を狙うのではなく、ゼウスの脅威からその身を守ろうとした。


 テテュスに家族を殺させ衝撃を与えることで、可及的速やかに女神継承を促した。



 継承が完了すれば、自分の身を守るなど造作ない。


 少なくとも非力な人間のまま何の抵抗もできず殺される事態にはならないはずだ。



 クロノスが最期に遺した言葉の通り、それこそが彼の希望だったのだ。




 黄金の目から迸しる凄まじいまでの光彩メランムを受け、ゼウスの身体は微動だにできない。


 その額からは脂汗が浮き上がり、双眸は真っ赤に血走っている。


 アポロンの放つ圧倒的な光彩メランムは、今や全能神のそれすらをも上回っていた。



「流石に少しだけ気の毒かな。やっと手に入れた王権なのに、ほんの一瞬で終わってしまうとは。だけど、ガイアの予言を信じたあなたは今ここで私に倒される、それがあなたが期待するご自分の運命でしょう? 私の呪縛から逃れられるものなら逃げてみたらいい。今度は急所を外しませんよ?」



 アポロンがタルタロスへ赴いたには、三つの目的があった。



 エストリーゼとの再会。


 タルタロスにおいてヘカトンケイルを巡る冒険。



 そして三つ目の目的とは――。



 ゼウス殺害。



 それが彼が言うところの一石三鳥だったのだ。


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