第96話 何千年ぶりかの涙
その姿自体は、自分も銅の扉の向こうで対峙したギュゲスと同じだ。
しかし大きさが数段違う。
いや、それよりもアフロディーテを恐怖に落とし入れたのは、扉から現れたのがエストリーゼではなく百手巨人だったという現実だ。
ならば、彼女は――。
アフロディーテの黒髪の下で汗が光った。
早くなる血流と共に、胸の鼓動が痛いほどにその身を打つ。
空色の瞳が熱くなり、何かが視界を滲ませていく。
喉の奥はヒリヒリと引き攣れて、苦しい嗚咽が込み上げる。
エストリーゼがまだ中にいるのなら、助け出さなくてはならない。
愛と美の女神は歯を食いしばり、次第にこじ開けられていく扉の先を睨みつけた。
その手に金の針を握りしめ、投げ放とうと腕を掲げた。
「待って、アフロディーテ!」
積み重なるように
気づけば、声にならない叫び声をあげて走り出していた。
両足が
それでもアフロディーテはエストリーゼのもとへと駆けていく。
そして、その胸へ飛び込むと激しく肩を震えさせた。
「ごめんなさい、心配させちゃって。なぜか扉が開かなくなってしまって、彼がこじ開けてくれなかったら大変なことになるところだったわ。――それに、わたしはまた罪を負ってしまった。こんな綺麗な子を泣かせちゃうなんて」
エストリーゼは笑って、アフロディーテの大きな瞳から流れ落ちる大粒の涙をすくった。
「わ、わたくしが涙を?」
広げた両手に、涙が確かに落ちてきた。
熱い涙が頬を伝い、真珠のように零れているのを間違いなく感じる。
アフロディーテは驚きの表情のまま苦笑した。
アテナを失ったときすらも、流したことはないというのに。
何千年ぶりの涙だろうか。
けれど、以前流した悲しみの涙とは違う。
今の涙は、とびきり極上の涙。
幸せの涙だ。
「エストリーゼ……わたくしは今、改めてあなたについていくと誓いましたわ。だって、こんなに幸せと感じたことはありませんもの。おかしいですわね。嬉しくて幸せなのに、次から次へと涙が溢れてくるんですもの」
生きることを嬉しいと、生きていてくれることを幸せだと、そう感じることが人間がいう「人生」というものなのだろう。
永遠の命を持つ自分が、短い命しか持たない人の生などを知る時が来ようとは思ってもみなかった。
なんと満たされた気分なのだろうか。
もしや、だからこそ人間は懸命に生き、そして喜び笑うのだろうか。
アフロディーテの薔薇のような笑顔から、また新しい涙が流れ落ちた。
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