第93話 賢者グラウコーピス

 ブリアレオスはアテナが殺された事実をまだ知らない――。



 この谷に幽閉され、外界から完全に遮断された空間にむブリアレオスには、世界を駆けめぐったアテナ遷化せんかの訃報すら届かなかったのか。


 それともここまで情報が届くには、かなりの時間的誤差タイムラグが発生するのだろうか。



 どちらにしても現在の彼は女神アテナの死も、その力を継承したエストリーゼの存在をも知らないようだ。



「待つんだ、エスティ。ここはボクにまかせて」



 その事実を伝えようと思い立ったエストリーゼをグラウコーピスは制した。


 ふくろうの目は鋭くブリアレオスを観察している。



 五十の顔全ての表情を見逃さぬように。



「まさかなぁ、おまえも俺と同じなのか? アテナに捨てられて、こんなヘボい女神に乗り換えたとか? あの美しく勇敢な、最高の女神に愛想をつかれるなんて、おまえはいったいどんなヘマをやらかしたんだ?」



 再びエストリーゼの肩に留まった梟へ、ブリアレオスは抑えきれない好奇心の目を向けた。



「そんなこと、おまえのような怪物には関係ないだろう?」


「いいや、関係あるね。見た目の美しい神なんざ、殺してやりたいほど嫌いなんだけどな。あの女神だけは違う。知略武力共に優れた勇猛果敢な女神。未だにティターン戦争ティターノマキアでは連勝を続けてるんだろう? 確か百戦百勝を成し遂げたとか」



 ブリアレオスがアテナに並々ならぬ畏敬いけいの念を抱いているのは明白だった。


 グラウコーピスはその丸目を光らせると神妙な声音を返す。



「残念ながら、百一回目にオリュンポス軍はティターン神族に敗れた。そして、その戦いで女神アテナは殺され、ボクはひとり遺されたんだ」




 ザワザワ。




 動揺が闇の粉塵を伝染していく。


 五十の顔が混乱の細波を立て、エストリーゼの身体を掴む百の腕は小刻みに震えだす。



 長い爪がさらに肉に食い込み、骨を、内蔵を容赦なく圧迫する。


 堪らず彼女は小さく悲鳴をあげた。



「神のやいばか! そいつは誰だ!」



 思い通りに話が進んでいるのだろう。


 グラウコーピスは一気に優位に立つ勢いで、迷い無くその問いに答える。



 その瞳には策略がうごめいていた。



「クロノス」



 ガリガリと、不快な音が空間を刻む。


 五十の口から無念の歯ぎしりが漏れ出ている。



「ブリアレオス、エスティを放せ。彼女は決してここから逃げたりしない。何故なら、彼女こそ、アテナが選んだ女神継承者だからだ」



 百の目が、一斉に赤いトーガを纏う少女へと視線を移した。


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