第92話 長兄ブリアレオス

「逃げないのか?」



 乾いた静寂の中にポツリと声が放たれた。


 それは高音だが、確かに男の声だった。



「わたしはエストリーゼ。そして、このふくろうはグラウコーピス。あなたがガイアの子ヘカトンケイルの長兄、ブリアレオスね」



 ブリアレオスの問いに軽く首を振って否定すると、エストリーゼは薄っすらと笑顔を見せて名乗った。



 喧嘩をしに来たわけではない。


 協力を請う相手ならば、まずはきちんと挨拶を交わすべきだと思ったのだ。



 しかし相手は即座にエストリーゼの好意を突き放した。



「逃げないのなら喰うぞ!」


「エスティ、危ない!」



 グラウコーピスの叫びと同時に、エストリーゼを囲む気配が闇から飛び出してくる。


 百の手が、その姿を覆い隠さんとばかりに少女の身体を捕らえた。



 しかし彼女はその場から動かなかった。


 長い爪がエストリーゼの肌に食い込み、激しい痛みを与えていく。



「おまえを喰えば、その記憶から俺は世界を見ることができるだろう。精霊や魔獣などチンケな奴らとは違う。おまえのような本物の女神を喰らえば、それは素晴らしく鮮明な映像を俺に見せてくれるはずだ。どうだ? 俺が怖いか?」



 ブリアレオスはエストリーゼの髪を無造作に掴むと、白い顔へと近づける。



「所詮、それも幻にすぎない。あなたも分かっているはずよ」


「どうかな? 今の俺にはそれでも十分だと言ったら、おまえは今度こそ俺を恐れるか?」



 グラウコーピスはハラハラして落ち着かずに宙を飛んでいた。


 梟の目には暗闇でもはっきりとその姿が見えている。



 五十の頭一つひとつの顔立ちも。


 百の腕一本一本の動きさえも。



 ブリアレオスは弟たちとは違って、その趣向がよく分かっていない。


 ただ一番美形で知性も高く、それ故に父ウラノス、さらには弟クロノスに幽閉された悲しみを深く感じているという。



 けれど情報はそれだけ。


 彼の助力を得るための有効な手段は、賢者グラウコーピスにも分からない。



「そこのネズミ! いや、おまえは確か……賢者グラウコーピスとか言ったよな?」



 呼ばれたグラウコーピスは、勇気を奮い立たせてブリアレオスの前へと飛んでいった。



「ははは! 俺はおまえを知ってるぞ。アテナの愛玩動物ペットだ。どうしておまえがここにいる? あの女神はどうしたんだ?」



 その問いにグラウコーピスとエストリーゼは逡巡した。


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