第十六章 扉を開けて

第86話 あれはいったい誰?

 晴天の空を湛えたターコイズの瞳は、大きく見開かれていた。


 数回瞬いたあと、桜色の慎ましい唇に乾いた言葉を乗せる。



「グラウコーピス、あれはいったい誰なんでしょう?」



 誰にへつらうこともなく常に高慢で、決して矜持きょうじを曲げたりしない男神。


 戦争を嫌い、音楽と情欲に溺れ遊び暮らすだけの愚神。



 だが決して心優しい男ではない。


 何よりも退屈を恐れる彼は、わざと疫病を流行らせて人間を虐殺したり、たった一つの良薬を提示して奪い争う人の姿を見て嘲笑う、美しくも残虐な太陽の神。



 それがアフロディーテの知るアポロンという男だ。



 アテナを含め、オリュンポスの神々がクロノスを討たんと立ち上がる中でも、彼は全く戦いに関心を示さなかった。


 退屈な日々の中で、他の神々が終わらない戦争にきょうを求めても、彼はいくさにだけはそれを求めなかった。



 だがその彼が。


 たったひとりの。



 それもアテナを継承したとはいえ単なる人間だった少女のために自ら力を提供しようとしている。



 いや、それ以前に。


 彼が誰かの前に膝をつく姿など到底現実とは思えない。



「何がお兄様を変えてしまったのかしら。約束を果たせなかったことは、確かに神として恥じるべき醜態。だとしてもそれが、腹立たしい程にいつもしゃに構えた性格のお兄様を、こんなにも変えてしまうほどの衝撃を与えたとは、わたくしにはとても思えませんわ」



 グラウコーピスは少しの沈黙のあと、静かに、だが幾分暗い声で答えた。



「あいつは変わったわけじゃないよ。誰よりも派手好きで、道楽を好み、退屈することが何より嫌いな奴だ。今だって、そのためならどんな残酷なことだってする悪魔のままさ。確かにクロノスなんかに出し抜かれ、エスティとの約束を完遂できなかったことはあいつの矜持を深く傷つけたみたいだけど。別にあいつの本質を変えたわけじゃない」



 珍しく恨みがましい言い方をするグラウコーピスを見て、アフロディーテは驚いたように目を瞬かせた。


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