第62話 無償の愛

 愕然とするエストリーゼは、震える口元から声を絞り出す。



「あ、あなたは、でも人間を――?」



 エストリーゼの問いと共にチェス盤は消え、かわりに豊かな金髪の美女が現れた。



 ――アテナ。



 微笑むアテナが駆けていく。



 白銀の鎧ではなく純白の美しいトーガに身を包み、花のように頬を染め、ひとりの男の傍へと走り寄る。


 翠緑の瞳を輝かせ、豊かな髪を風に揺らし、その腕に血塗られた剣ではなく花を抱いて。



 しかし、その足は何かに打たれたようにぴたりと途中で止まってしまった。


 男の横に寄り添う他の女の姿を認めてしまったからだ。



 薄茶の髪をなびかせて幸せそうに男に笑いかける女を、エストリーゼは直感的に人間だと確信した。


 そしてこの男こそプロメテウスその人だとも。



 アテナが愛したプロメテウスは人間の女を愛していた。


 女が死しても彼はアテナに振り向くことはなかった。



 ただただ、その女を愛し、そして人間を愛していた。



 苦しい、悲しい。


 けれど――どうしようもなく愛おしい!



 アテナの心が再び蘇ってきたが、エストリーゼはもう苦痛を感じることはなかった。


 むしろ感じるのは歓喜かんき



 頬を流れる涙が、彼との再会の喜びを否応なしに伝えてくる。



 終わりなき神々の戦争に巻き込まれる人間を見て、プロメテウスは嘆き悲しんだ。


 そして祈るよう、救いを求めてアテナにその手を差し出す。



 報われない愛を抱いたまま。


 アテナはプロメテウスの腕を取り微笑んだ。



 そして、彼と共に人間の次元と神々の次元を分かつ神膜しんまくを形成する。



 神膜とは――無償の愛。



「私は彼女の気持ちには応えられなかった。己を含めた神という存在を赦すことができなかったからだ。それなのに、結局私は人間を守るために神の力を必要とした。彼女は全てを理解した上で、私に無償の愛を与えてくれた。そして、今も。己が死しても、その継承者として彼女は人間であるおまえを選んだ。おまえは、彼女の愛の証だ」



 エストリーゼはプロメテウスのこの言葉に激しく反発せずにいられなかった。



「違います、わたしは罪深い人間なのです。わたしもチェスのこまからこぼれ落ちる取るに足りない人間に過ぎません。それなのに、わたしは決して赦されない望みを抱いてしまった。そしてその為に、大切な人たちを死なせてしまった。わたしが無償の愛を口にする資格などありません」



 俯いたまま悲痛の想いを打ち明ける。


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