第51話 地下水の神テテュス

 そして――。


 この女。



「ハーデスの番犬がまだ彷徨うろついてるねぇ。おお、嫌だ。地底にはない娯楽を漁りにきたのかね」



 水色の女がうんざりと吐き捨てる。



 ォォォォォオォーーーン。



 確かに、遥か遠くから遠吠えが聞こえた。



 オリュンポスの冥界を統べる王、ハーデスが分身。


 三つの頭を持つ魔犬、ケルベロス。



 けれど、今のエストリーゼにとってはどうでも良い存在だ。



「おっと、お目覚めかい?」



 今、初めて気づいたというように、女は眉を上げ、驚いた表情を見せた。


 白々しさに反吐が出そうだ。



「あんたは三日間も眠ってたんだよ。あんまり起きないんで、まさか死んじまったんじゃないかと心配したよ。あんたに死なれちゃ、このあたしが困ることになるんでね。――はじめまして、あたしは泉と地下水の神テテュス。以後よろしくねぇ、のアテナ」



 テテュスと名乗った女が石の扉を開けると、隣の部屋から光が入り込む。


 石造りの広い部屋は橙色の明かりに照らされた。



 エストリーゼを覗き込む女は肩にぐるぐると包帯を巻いている。


 まだまだ重傷であるのだろう。


 白い包帯に滲む鮮血がそう告げていた。



 泉のような薄青い髪と整った顔が携えるアクアマリンの瞳は、エストリーゼに氷点下の冷気を感じさせた。


 感情など一欠片も持ち合わせていない、無慈悲な存在。



「別にここは牢獄じゃあないよ。あんたはもうすぐ自由だ。勝手に出歩いていいし、この暗い神殿から出てってもいい。元の人間界に帰るのもいいだろうし――あはは、アポロン神殿へ戻ってもいいんだよ。なんなら、あたしが送ってやろうか?」



 女は嫌らしく笑った。


 真っ赤な紅を差す口元からは、低音の笑声が噴流する。



 黙ったまま、憤怒の形相で睨み続けるエストリーゼに怯むことなくテテュスは続けた。



「怖いねぇ、その目。今、あたしを殺そうと思っただろう?」



 睨みつけたまま、エストリーゼは無言を返す。



「よしとくれよ、あたしは悪くない。それに、すでにアポロンの矢を受けて重傷なんだ。見てよ、この傷。まだ出血が止まらない。やじりに切り裂かれた肉も砕かれた骨もぜんぜん治ってくれないんだ。まぁ、神のやいばを受けたわけなんだから、この傷はしばらく消えないだろうし、痕もしっかり残りそう。それでもあたしは幸運だった。これが急所に当たっていたらと思うとぞっとする」


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