第33話 赤と黒のトーガ

「エスティ、今夜の晩餐会に出席してからアポロンと神膜しんまくの向こう……人間界に降りるんだよね? そろそろ出かける準備をしたほうがいいよ」


「そうね。でも……なんだかとても嫌な予感がするの。グラウ、もし間に合わなかったら……」



 説明のつかない不安が込み上げてくるのを、エストリーゼは頭のどこかで感じていた。



 黒死の病と奇妙な魔物の脅威に日々疲弊していく故郷、ドリピス村。


 そして、大切な妹タミア。



 エストリーゼがメッシーナ劇場の舞台に向かった日も、妹の病状は酷かった。


 それでも笑顔で見送ってくれた姿を思うと、決してこの機会を逃すわけにはいかない。



 そんな精神的重圧がエストリーゼに恐怖をもたらしているのかもしれなかった。



「そのへんは大丈夫だと思うよ。ああ見えてもあいつは歴とした医術の神だ。アポロンはたぶん人間界の状況を正確に理解してる。あいつのことだから、ギリギリって可能性はあるけれど。くびきの腕輪も無事に外してもらえたことだし心配いらないよ。とにかくせっかく上手くいったんだから、ここはあと少しの辛抱だと思って乗り切ってごらん」



 グラウコーピスの言葉に励まされながらも。


 拭いきれない不安を紛らわせるかのように、エストリーゼはアフロディーテに向き直った。



「あの、ありがとう。アフロディーテ、あなたのおかげでわたしの願いが叶えてもらえそう。それと……あの、できればわたしのことは名前で呼んでもらえると嬉しいわ」



 黄金の軛を外させるに至ったのは、世にも美しいこの少女――愛と美を司る一柱の女神のおかげだ。


 感謝の気持ちが尽きない。



 アフロディーテの顔がパッと明るくなった。


 それこそ薔薇の花が開くように、可憐な笑顔を溢れさせる。



「まあああ! 今日はなんて幸せな日ですこと! 誰かにお礼を言われるなんて。わたくし、もしかしたら初めてかもしれませんわ。なんて満たされた気分なんでしょう! お姉様、いえ、エストリーゼ! わたくし、これからもずっとあなたをお慕いして参りますわ!」



 抱きつくアフロディーテに困惑しつつも、エストリーゼは嬉しくなった。


 たった一人の妹タミアを思い出したのだ。



 ――もうすぐ、また家族全員に笑顔が戻る。



 村のみんなも助かるんだ。



「あ、そうでした! わたくしからのプレゼントとはトーガですのよ。お兄様の用意した衣装なんて、それはもう、何も着ない方がマシなほどに卑猥ひわいな代物に違いありませんからね!」



 そう的確な内容を口にして、アフロディーテは一着の衣服を手渡す。



「アテナお姉様の継承者は黒髪とお聞きしたので、精霊たちに急いで作らせましたの。わたくしのように色素が薄い容姿では、どちらかというと淡い色を好んでしまうんですけれどね。エストリーゼのようなコントラストをお持ちの方なら、きっとこの方が凛々しくお映りになりますわ……」



 アフロディーテが用意してくれたものは、濃い赤地に黒と銀の刺繍が美しい、目に鮮やかなドレス風のトーガだった。


 肩は大きめに開いているが、決して下品にはならない程度の洗練された意匠だ。



「わあ! 素敵だ。エスティ、早速着てみなよ」


「賢者グラウコーピスにお褒めいただけるなんて光栄ですわ。さぁ、時間もありませんし、早く着替えてくださいませ」



 二人の言葉に背を押され、エストリーゼは笑顔で頷いた。


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