第31話 腕輪からの解放

「それは……」



 エストリーゼの目はその白地の布に縫い付けられていた。



 忘れもしない。



 見覚えのあるそのストールは、三年前のあの日、湖の畔でエストリーゼが確かにアテナに差し出したものだ。


 別れの瞬間、彼女がそのまま持って消えたのは覚えている。



 ふと顔をあげてみれば、アポロンの表情からはなぜか風刺ふうしの色が消滅していた。


 これまでの不遜な態度が一変している。



 そしてエストリーゼが発した小さな言葉に、彼は甘い微笑を見せた。



「そう、これは君がアテナに渡したもの。そして彼女が死に際に、私へ託した大切なものだよ」



 信じられないものを見たように、エストリーゼは瞬きを繰り返した。


 彼のような高潔な男がそんなつまらない布などを大切にしている姿など、想像するにも無理がある。



 しかし、エストリーゼが抱いた疑念など気にする様子もなくアポロンは続けた。



「まさか自分の腕ごとくびきを切り落とそうとするとはね。そんな勇気、人間の娘が持ち合わせているとは考えてもみなかった。完全に私の負けだ。約束通り、君の願いを叶えようじゃないか」



 アポロンは片腕をエストリーゼの左腕に乗せた。


 ぴったりと嵌められていた黄金の腕輪が、吸い取られるように消えていく。



 もともと物理的圧迫感を感じていたわけではないが、何やら腕が軽くなり気分まで明るくなっていった。


 戒めとは、その精神までを囚人と化してしまう代物なのだろうか。



「これで君は、真実、その腕輪を私に外させることに成功した」



 双眸を緩め、アポロンは清々しい笑みを零した。


 額にかかる白銀の髪が風に揺れ、太陽の光が瞳に反射する。



 この時、エストリーゼは初めてこの男を心から美しいと感じた。



 それほどまでに。


 彼の笑顔は春風のように柔らかく穏やかだったのだ。



「お、お兄様! その必殺の笑顔はいけません! お姉様に色目を使うなんて、このわたくしが赦しませんわよ!」



 愛と美の女神は、敏感に何かを感じたようだ。



「さぁ、お姉様。お部屋へ戻りましょう。わたくし、今日はプレゼントをお持ちしましたの。この愚兄ぐけいの趣味は最低なんだと分かっておりましたからね」



 アフロディーテに手を引かれ、エストリーゼは自室へと歩き出す。


 ふと振り向くと、アポロンの姿はすでに消えていた。



(もしかして、彼はわたしを……)



 庇ってくれたの?


 これまでとは違う、爽やかな風がエストリーゼの胸を吹き抜けていった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る